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 あれは悪夢だったのかもしれぬ。
 いや、そうだと思いたい。
 何年か前、瀬戸内海は某島を旅したときのことを思い出すたび、私は言いようのない寒気に襲われる。
 私は旅人であった。
 観光や湯治には興味がなく、ただ定職や住処を持たずふらふら各地を流れ歩く放浪者であった。
 その島もこれと言って観光名所があるわけでもなく、地元の住民が細々と漁や農業で生計を立てる小島だったと記憶している。
 そんな島に、年に一度いるかいないかの旅行者として訪れた私は、島に一軒のみの民宿で不審げな眼差しを浴びながらもやはりふらふらと過ごしていたのだった。
「『いみ山』には行ったらいけんよ」
 民宿の女将がそう言っていた。
「いみ山?」
「あのお山や。お山とその周りは私有地なんじゃわ」
 どうやらこの島にも地主とか有力者のような一族がいて、厳しく目を光らせているようだった。
 しかし、何か引っ掛かる。
 女将の、なんの変哲もなさそうな山をまるで忌み地のように厭う口調が。
 何か――おそらくはその地の地主を恐れているだろうに、不自然にその名を呼ぶのを避けているような。
 好奇心を刺激された私は、愚かにもその女将の忠告を無視して『いみ山』に向かうことにしたのだった。

 

 

 

 

 『迷い家』は、確か東北地方の話だったか。四国や中国地方に伝承されているかは知らないが、そんな印象を受けた。
 山に近づくにつれて、ひと気のない、人の手の入らない荒地が広がっていったが、ふと急に目前に手入れされた庭園が開けていた。
 サザンカにロウバイ、ツバキにツワブキ。
 異様なほどに花の咲く庭の奥に、威容のある日本家屋が見えた。
 美しいが、違和感を覚えた。
 荒地の中に、その屋敷だけ整えられている。
 まるでどこかから地面ごと捥ぎ取ってきたもののを無理矢理にそこに植えつけたように。
 しばらく呆気に取られていた私だったが、じゃら、と砂利石を踏みつける音で我に返った。音の方へ首を向けると、ツバキの木の前に男が立っている。
 三十、多く見積もっても四十の手前か、若い男だった。
 着流しに羽織を肩にかけ、いかにも今庭に出たばかりと言った風体で、ツバキの枝をいじっている。
 ぱちん、ぱちんと音がした。
 剪定でもしているのか。手には和鋏があった。
「……おや」
 男も私に気付いたのか、こちらを向いた。
 片目を隠すように包帯を巻いている。
「お客さん――かな。すみません、こんな恰好で」
 そう言われ、私こそ私有地にずかずかと上がり込んでいることに気がつき慌てて頭を下げる。
 自分は旅人で、散策しているうちにここまで来てしまったのだと話した。
 『いみ山』の話には触れなかった。
「そうですか。こんな島に……何もなくって面白くないでしょう? オリーブなんかを植えているわけでもないし」
 私のしどろもどろの説明に特に何も思わなかったようで、男は苦笑しながらそんなことを言う。
 ぱちん、ぱちん。
 手元では変わらず、鋏を動かしている。
 ああ、まあ、のんびりできて心地良いですよ――などと、あやふやな相槌を打ち、私は男の姿を改めて観察する。
 包帯で半分隠れているが、見えている部分は非常に整った顔立ちだった。切れ長の人形のような眼差しがツバキに向けられている。
 眸がいやに昏く見えたのを覚えている。
「せっかくですし、少し休んでいきますか? 大したおもてなしもできませんが……ちょうど、女房も出かけていますから」
 男が屋敷の方を振り返る。
 屋敷はしん、と静まり返り、住人の気配を感じさせない。
 厭なものを感じた私は男の誘いを固辞することにした。
「いえ、お時間をいただくのは申し訳ありませんから」
「……そうですか。こちらこそ不躾にすみません」
 やはり社交辞令だったのだろう、男は私の返事に気を留める素振りもなく、鋏を動かし続けている。
 ……ふと、奇妙に思った。
 私は園芸には明るくないが、剪定はいつでもどの季節でもやっていいということはないはずだ。『桜切る馬鹿梅切らぬ馬鹿』とは言うけれど……サクラにしろウメにしろ、花の咲く季節に枝切りはしないと思う。
 肌寒く、身を切るような風が吹く中、男の触れるツバキはまさに満開である。下手に枝切りなどすべきではなかろう――私は男の手元に目を凝らし、そしてその目を疑った。
 ぱちん、ぱちん。
 和鋏が交差するたび、ぼとりと花が落ちていく。男は枝ではなく、紅色に咲う花だけを狙い切り落としていた。
 ぱちん、ぼとり。ぱちん、ぼとり。
 ツバキの木の根元は落とされた花で埋め尽くされようとしている。
「何を――しているんですか」
 思わず、そんな声が出た。
「え、ああ……女房が嫌がるもので」
 男はきょとんとした顔で私の問いに答えた。
「放っておけばそのうち枯れて落ちるんですけどねえ。女房の奴、そんなの待っていられないってツノを立てるんです」
「奥さんが……切れ、と?」
「木ごと伐り倒せって大騒ぎして大変でしたよ。花に嫉妬するなんて可愛いものですけど、さすがに木を伐ったり抜いたりだなんてやってられませんし……女房が家を空けている間に片付けて、機嫌を直してもらおうと」
 男は淡々と、ごく自然な日常を語るようにそんなことを言った。私は二の句を継ぐことができず、呆気に取られていた。
 ――忌まわしい。
 可憐に咲いた花を、なんの感慨もなさそうにぱちぱちと切り落としては草履で踏みつけるその男が、急にこの世のものではないように思えてきたのだ。
「……変わった奥さんですね」
 やっとのことでそんな相槌を打つと、「ええ、ちょっとばかり気が短いのが困りもので」と男が笑う。その間にも男は和鋏を動かし続けて。
 ぱちん、ぼとり。ぱちん、ぼとり。
 ――ばちん。
「あっ――」
 男が声を上げる。私はその声に釣られ、その忌まわしげな光景に再び視線を向けてしまった。
「……やっちゃったなあ」
 困ったように左手を掲げている。手から垂れ落ちた血が男の顔にぴちゃぴちゃと落ちた。
 中指の先端が、無い。欠けた断面からどくどくと血が流れ落ちている。
 地面にはツバキの花に紛れて、断ち切られた指先が落ちていた。
「またあいつに叱られる……困ったなあ」
 些細な失敗をしたかのように呟く男に、私はいよいよ恐怖するようになっていた。
「て、て……手当てを」
「ああ、ご心配なく。大丈夫ですから」
「しかし……」
 今すぐにでも逃げ出したいのを、しかし指を切断して大丈夫なはずがなかろう、と男に近づこうとして、私は奇妙な音を聞いた。
 ずりずり、ずりずり、と――山の方から何か大きな荷物を引きずってくるような音だった。
「ああ、いけない。あいつが帰ってくる」
 男が呟くと、和鋏を懐に仕舞って私を見た。
「すみません、女房の奴が戻ってきたみたいで。少々人嫌いなもので、あなたを見たら何をしでかすかわからない。女房に見つかる前に宿に戻ったほうがいいですよ」
「え、は、はあ……?」
「ほら、早く」
 男が私の背中を押す、その直前――私は見た。
 山付近の林の方から。木々を掻き分けるように、大きな――高さおよそ人二人分ほどはありそうな大きな大きな白いモノがこちらへやってきているのを。
 逃げ出す間際にちらりと見えたその表面には、確かに鱗があった。

 

「おーい、そこの人!」
 泡を食って来た道を引き返し、ようやく人里の手前まで戻って来た私に、町の方から歩いてきた人影が声をかけた。
「兄さん、あんた、この島の人じゃないよな? 『いみ山』に行ってきたのか?」
 スーツを着、長い黒髪をひとまとめにした男だった。
 ネクタイが黒く、肩に輪袈裟を掛けているから法事に行く途中かと思ったが、それにしてはピアスなどアクセサリーが派手である。目鼻立ちのくっきりとした、体格の良い若い男。後から考えるほど、彼のいでたちも奇妙であった。
 異様なくらい、目に焼きつくくらい、その眸がぎらぎらと煌いていたように思う。
「えっ、あ……」
「……行っちまったんだな。まあ、無事に戻って来れて良かった」
 私が答える前に、スーツの男はそう断定した。私の顔にはっきりと書いてあるかのように、その目で見たかのように。
「まあ、気にしない方がいいぜ。美味しいものを食べて、風呂に入って、さっさと忘れた方が身のためだ」
「――“アレ”は、なんなんですか?」
 私の口からそんな言葉がついて出た。
 初対面の彼に聞いても伝わるはずがないのに、何故か彼なら理解してくれるように感じたのだ。
「あの屋敷は――あそこに居た人は。アレは、いったい。あんなのまるで……」
「アレは、異界だよ」
 男は端的に答えた。
「あいつは異界のモノになっちまったんだ。兄さんが見たのは幽霊とか妖怪とかと同じ、“こっち”の世界には居ないモノだ。“あっち側”にいっちゃったんだよ、あいつ」
 男は少し悲しげな顔をして、そんなことを言う――半ば独り言のようで、私にはあまり理解できなかったけれど。
「“あっち側”だって地獄には変わりないだろうにな」
 彼はあの男と旧知なのだろうか。
 なんとなく、そんな風に見えた。
「まあ、とにかく。さっきも言ったけど、気にしない方がいいぜ。行こうとしたって行けないくせに、意識すればするほど近づいてくるのが異界なんだ。悪い夢を見たと思ってさ――」
 そう言いながら男は身を翻し、私が走ってきた方向へ歩き始めた。
 まさか、あの屋敷に行こうと言うのか。
 あの忌まわしい男のところへ。
「ああ、俺は用事があってな」
 私が尋ねる前に彼は答える。
「あいつの新婚祝い、まだしてなくてさ」
 そう言って彼が持ち上げてみせたアタッシェケースはいやに物々しく、祝いの品が入っているようには見えなかったのだけれど。
 まるで極道者のかちこみである。
「は、はあ。お気をつけて……」
「ところで、兄さん」
 男が振り返り、その鋭い眼光で私を見た。
 彼の視線で、私は初めて自分がずっと拳を握りしめたままだったことに気がつく。
「“それ”は、宿に帰る前に捨てておいた方がいいんじゃないか?」
「え――」
 男に言われ、私は拳を開いた。
 はらはらと、崩れた赤い花びらが零れ落ちる。
 手の中にあったツバキの花を見て、私はいよいよ卒倒した。

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