top of page

 失敗はいくらでもしたことがあるが、ふとしたときに思い出してしまうのは子供の頃の失敗ばかりだ。

 小学生の頃。確か、何年生かの夏休みだった。
 師匠からの言いつけで、俺は簡単なお祓いの手伝いをしていた。
 よく言う心霊スポットや、今風の“事故物件”のように、怪異悪霊が巣食っているような場所ではなく、もっと原始的で取り留めもない――“良くないモノ”が集まる場所の掃除だ。
 鬼門や霊道や龍脈、地理的な問題で瘴気が吹き溜まる場所はどこにでもある。そんな場所には大抵は対策として鎮守や氏神があるものだが、たまにそれらがなく瘴気が溜まる一方の魔所があるのだ――というのが師匠の言で、そういった魔所を見回り、一時的に清めるのが師匠のような“流し”の霊能者の仕事の一つだった。俺が言い渡されたのは、師匠が祓って回っている魔所の中でもあまり面倒の少ない、簡単な仕事の手伝いだった。
「今の坊主ならお遣いと変わらんくらいのもんだ。やり終わったら好きに遊んで良いぞ――」
 と言って、師匠にしては珍しく太っ腹に小遣いと、当面の宿の用意までしてくれた。今にして思えば、手伝いという名目で夏休みの遊びを用意したつもりだったのかもしれない。
 残念ながら、師匠の思惑から外れることばかりが起こってしまったのだが。

 

 首都近郊、ベッドタウンらしい静かな住宅街だった。
 確かに、明らかに“悪い”わけではないが、どことなく“良くない”空気が吹き溜まっている感じがあった――今はまだ息苦しい程度で済むが、放っておけば“澱み”がどんどん悪いモノを引き寄せるだろう。
 着いて早速、町の中心部の人目のつかない場所でお祓いを行う。師匠の見立て通り、まだ未熟な俺でも容易く片付けられる程度の澱みだった。
 呆気なさに拍子抜けすらした。
 当面の生活費まで用意してくれた師匠には悪いが、こんなにさっさと終わってしまうのならもう施設に戻ろうかと思った。が、「常在戦場、兜の緒を緩めるな」が師匠の教えである。念の為その日はそこに泊まり、一日様子を見ることにした。
 翌日、唖然とした。
 昨日俺が来たばかりの時とまるで変わらない量、質の“澱み”が町に渦巻いていたからだ。
 瘴気や怨念、あるいはもっと抽象的な“良くないモノ”はいわば埃や塵と同じで、人の営みの中で自然発生する。場所が良ければそれらは勝手に流されていくし、ここのように良くない場所なら澱みとなって吹き溜まる。
 だが、溜まるにしてもある程度時間が掛かるものだ。磨き上げた床に急に埃がうず高く積もることがないように、長期間“掃除”を怠って祓われなかった瘴気が集まることで澱みになる。たった一日で昨日と元通りに吹き溜まりができるなんて普通はありえない。
 誰かが意図的に“良くないモノ”を呼び込んでいるのでもない限り――
 違和感を覚えた俺は、澱みの発生源を調査することにした。
 普通澱みは各所で発生したモノが気の流れで運ばれ、溜まりやすい場所に滞留してできる。だがここの場合は順序が逆で、一箇所に発生した“澱み”から少しずつ拡散した瘴気が街の各所へ流れているようだった。
 そこは、何の変哲もない小ぢんまりとした市立図書館だった。
 軽く調べても歴史的な因縁や古くからの“言われ”などは見つからない。強いて言えば立地の問題か他の公共施設よりアクセスが悪く、利用者の数が多くなさそうに見える程度か。無論、油断は禁物だが……。
 夏休みの宿題をする小学生を装い、図書館内部を調べた。
 図書館の職員は親切で、日常業務の合間を縫って丁寧に館内を案内してくれた。やはり利用者が少ないのか館内は閑散としていて、夏休みだというのに俺以外の子供の姿はほとんど見かけなかった。
「あら、でも最近はきみと同じくらいの子がよく勉強しに来ているのよ?」
 俺が指摘すると、ちょうどその時案内してくれていた職員がそう言って自習室へ連れて行ってくれた。
「ほら、あの子――」
 そこには、大型の百科事典に顔をうずめるようにして読んでいる子供がいた。
 清潔な服を着ていたが、癖の強い髪を長く伸ばしているせいで顔が隠れ、まるでホラー映画のお化けのようだった。
「ねえ、きみ……」
 職員に声をかけられると、彼――男児風のシャツと、半ズボンを穿いていたからそう判断した――は見るからに嫌そうなそぶりでかぶりを振り、百科事典を抱えて自習室から出て行ってしまった。
 その刹那、髪の隙間から覗いた彼の左目がいやに昏かったのが印象に残った。
 彼のことが、なぜだかひどく気にかかった。

 

 


 職員と別れた後、彼を探した。
 児童書コーナーや雑誌コーナー、子供のいそうなところには見つからず、やっと姿を認めたのは図書室の最奥部、職員の姿すら見えない史料コーナーだった。
 先程読んでいた百科事典はテーブルに置き、本棚の前に立っている――てっきり何か本を探しているのかと思ったが、彼が触っているのは本ではなかった。
 図書館内にも漂っている、“良くないモノ”だ。
 それらには悪霊や妖怪のように人格や魂があるわけではない。空気に混じる気体と同様に、ただそこに“在る”だけのものだ。なのに――彼は“それ”が生きているかのように話しかけ、笑いかけすらしている。
 何をしているんだ、彼は。
 異様さを感じ、俺は彼に話しかけた。
「……きみ、何してるんだ」
 彼は俺が来たことに気づいていなかったのか、声をかけられると驚いたように振り向いた。弾みで髪が揺れ、一瞬顔が露わになる。
 右眼の眼球が、まるで墨を流し込まれたかのように真っ黒だった。
「……何」
 ぼそぼそとしゃがれた声で返事が来る。何年も喋ったことがないような、枯れた声だ。
「何か、用」
「いや……」
 明らかに敵意を感じる反応に、かえってこちらのほうが戸惑ってしまった。
 だが、放っておくわけにもいかない。
「きみ、今何か触ってただろ」
「……別に」
「きみが触っていたのは、危ないモノだ。触らないほうが良い」
 彼の目が、限界まで見開かれた。
「……視えるの? これが」
「あ、ああ……」
「じゃあ、あれは?」
 と、彼はあらぬ方向を指す。そこにはおそらく普通の人間には見えない、無害な霊魂が漂っている。
「ただの浮遊霊だろ。それがどうしたんだ……」
「視え、るんだ」
 闇のように昏かった瞳に、光が差した。
「……来て!」
「え、お、おいっ!?」
 急に彼に腕を掴まれ、引っ張られる。興奮した様子で、こちらの言葉など全然聞こえていないようだった。
「何するんだ、いったいどこに行く気だ?」
「視えるんだろ、君には。視てほしいんだ、いっぱい」
 彼の言葉は断片的で、何を言いたいのかもよくわからなかった。ただ、彼が凄く喜んでいることだけは強く伝わってきた。
 わけがわからないまま、星空のように瞬く彼の瞳から目を離すことができなかった。

 彼の名前が兄口誘太郎だと知るのは、その出会いから随分経ってからのことだった。

bottom of page