それから日が暮れるまで、彼に付き合わされた。
図書館やその周辺のあちこちに連れ回され、あれが視えるか、これが視えるかとしつこいくらいに訊ねられた――どれもこれも霊や怪異など、通常人の目には見えないものばかりだった。
彼にはどうやら霊感があり、この世ならざる存在を感知することができる――そして、同様に彼岸の存在が視える俺との出会いが望外の喜びだったようだ。
「すごい。本当に、視えるんだ」
「ああ……」
一日中振り回されて、さすがに疲れた。本来の目的だった“澱み”の調査もできていない。これだけ付き合えば彼も満足しただろう、そろそろ別れてもいいだろうか、と彼の様子を窺う。
「ねえ。きみ、明日も来る?」
「え……」
「僕、ここにいるから」
「えっと……」
彼の言葉にどう返すか悩んでいると、ふいにざあっ、と風が吹いた。
強い風に驚いて周りを見回すと、いつの間にか彼が居なくなっていることに気が付いた。
とにもかくにも図書館を調査しなければならないので、翌日も向かった。
幸い“吹き溜まり”の濃度は昨日から変わっておらず、急いで解決する必要はなかった。もちろん、だからといって放置していいものでもないが……。
彼は、やはり自習室にいた。
「あ……来た」
今度は国語辞典を複数抱えている。彼は事典を好むタイプの読書家らしい。
「……今日は、いったい何をするんだ? どこへ行くんだ?」
昨日うんざりするほど連れ回されたことを思い出し、少しげんなりしながら一応聞く。返答によっては断って、図書館の調査を再開する予定だった。
「ううん。今日は、行かない。どこも」
「そうなのか?」
彼の返答が以外で思わず問い返す。彼は、長い前髪から覗く目をはにかむように細めた。
「きみの、話が、聞きたい」
そして彼は、俺の後ろについて回ってはありとあらゆることを聞きまくった。
「どこに住んでるの?」「何年生?」「なんでここに来たの?」「手首につけてるのは何?」「数珠って何?」「霊能者って何?」「なんでそんなことしてるの?」「救うって何?」「人間を救うってどうやって?」「人間を救うとどうなるの?」「なんで?」「なんで?」「なんで?」「なんで?」「なんで?」「なんで?」「なんで?」「なんで?」「なんで?」「なんで?」
誇張じゃない。
最終的にはひたすらずっと「なんで?」と聞いていた。
俺が昨日以上にうんざりしたのは言うまでもないが、彼も彼でよく飽きずに質問し続けられたと思う。
好奇心の鬼か。
しかし、これほどあれこれ聞いてくるにも関わらず、なぜだか不思議と俺の名前を訊ねることはしなかった。
まるで、彼の中では“名前”の概念が存在していないかのようだった。
だからというわけではないが、俺も彼の名前を訊ねようとは思わなかった。
俺も彼も、相手のことを「きみ」と呼べば成立する、そんな関係だった。
「じゃあ、その“よどみ”を解決したら、きみは帰っちゃうの?」
「ああ、まあな。ずっとここにいるわけにもいかないし」
「………………」
渋い顔をする。
「きみだって、日が暮れたら家に帰るだろ。親に心配されるし、ずっと外で遊んでいられない」
「心配、したりしないよ」
吐き捨てるように言う。家族との仲が悪いのだろうか。
「でも、なんで、そんなことしてるの?」
「なんで、って?」
「その、“よどみ”を綺麗にしても、時間が経ったらまた元通りになっちゃうんでしょ? 他の人には見えないから、褒めてもらえもしないし。きみがやらなくて、いいんじゃないの」
不思議なことを言うな、と思った。
ふざけているわけでもなく、純粋な疑問で訊いているようだったから、こちらも真面目に答えることにした。
「やらなかったら不幸になる人が居るなら、やるしかないだろ。誰が、とかは関係ない。僕ができることならやるだけだ」
“できる”ということは、それだけ幸福なことなのだ。
やりたくでもできないことはいくらでもあるのだから。
俺の答えに、彼は形容しがたい複雑な表情をしていた。
「ねえ、なんできみは……」
そんなに、人を助けたいって、思ってるの。
だって、みんな弱くて哀れで、見ていられないくらいかわいそうじゃないか。
確か、そう答えた。
彼は、なぜだかとても嫌そうな顔をしていた。
図書館に来ては彼にまとわりつかれて、気づけば三日も経っていた。
こうなると俺の方も図書館の調査をしているのか彼と雑談をしているのかわからなくなってくる。
彼はほとんど自分のことを話さなかった。
図書館に入り浸り、大判の本を抱きしめるほどの本好きで、人と話すのが苦手。どれだけ俺を質問攻めにしていても、図書館の職員が近づいてくるとさっさと逃げて姿を隠してしまう。そして霊感が人一倍強い。わかるのはこのくらいだった。
思えば奇妙ではあった。
彼を見ていると、同年代の子供というよりはそれよりずっと年下の子供を相手にしている気分になったり、そうかと思えば妙に大人びたことを言い出したり……浮世離れしているというか、世間ずれしていないというか。
とにかく、“普通らしさ”を感じない。
だが、それを苦痛に感じたことはない――鬱陶しさ、しつこさを感じることはあっても、彼を拒絶しようとは思えなかった。
彼が俺を見るときの、あのきらきらとした眼差しを見るたび、心臓を握られたような心地になった。
この瞳が見られるなら、彼が多少何をしたって許せるし、彼のためにもっといろいろしてやりたいと思えた。
あんな風に見てもらうのは、初めてだったから。
もちろん、いつまでも彼に付き合ってはいられない。いいかげん適当なところで切り上げて、“澱み”をなんとかしなければ。
だから、四日目の朝は彼に会いに行くのをやめ、図書館の奥へ向かった。
師匠は常々言っていた。人相手のお祓いをするときは、その人の背景をよく考察したうえで行動を起こせ、と。
彼は、おそらく孤独な身の上だ。
いくら夏休みだからと言ってこうも毎日図書館に入り浸っているのはさすがに普通じゃない。少なくともいっしょに遊ぶ友達がいないのは間違いないし、彼の言葉から察するに両親との仲も芳しくない。
多分その原因は、彼の霊感にある。
自分自身そうだったからよくわかる。自分に見えるものを他の人間と共有できないのは苦痛だ。話が噛み合わないし、ともすれば自分が異常者であるように扱われる。彼が人目を避け、本に没頭するのはごく自然なことだっただろう。
そして――そんな彼に見えるモノと言ったら、あの瘴気だ。
普通なら忌避すべきものに親近感を覚えても不思議じゃないし、そうして彼が“それ”に関わり続けるとどうなるか――早く事態を解決しなければ取り返しのつかないことになりかねない。
早く澱みの原因を突き止め、彼を助けなければ。
そのときは、それが最適解だと思っていた。
入ってみると、図書館内部の澱みは急激に濃くなっていることがわかった。さすがに常人でも息苦しさや不快感を覚えるのだろう、職員達が戸惑った様子で窓を開けたり換気を試みている。
残念ながらあまり効果はないだろう。おそらく澱みの発生源は図書館内部にあるから、根源を断たなければ。
そしてそれは、図書館の最奥部――史料コーナーだった。