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 一度、『トウビョウ』なる憑き物について、私の知見と考察をまとめておこうと思う。


 トウビョウとは、中国・四国地方においては蛇、あるいは狐とされる憑き物である。ここでは、主に蛇トウビョウについて語るものとする。
 まず第一に憑き物としての性質だ。狐というといわゆる狐憑きが連想されるが、トウビョウについては個人が突発的に野狐や野蛇に祟られ憑かれるというわけではなく、いわゆるイエに憑くモノ――憑き物筋とか呼ばれるものである。
 多くの憑き物筋に共通されるように、トウビョウも憑いた家に富をもたらし、敵対者に害をなす存在として語られる。
 特徴的なのは、その家における憑き物の扱いだ。まず、家のどこか――蔵だとか床下だとかに、蛇がうじゃうじゃと大量に入った瓶がある。その蛇に飯を与えて世話をするのである。この蛇がトウビョウであり、別の家から金目のものや食料を盗んで家に与えたり、他者に取り憑いて害をなすのだという。
 この蛇に飯を与え忘れるとかえって家のものに害をなすため、甲斐甲斐しく給仕をしなければいけないわけだが、面白いのが家の者がこの蛇の扱いに困り果てていたところ、旅のものがたまさか蛇を殺してしまったことで感謝する、という伝承が伝わっていることだ。憑き物は大抵、居なくなったり死んでしまうと家が傾くとされるが、どうやらトウビョウというモノは、それがもたらす幸運より世話の負担が勝つという性質らしい。
 憑き物とはいうが案外簡単に殺せてしまったり、世話を焼いてやらなければならない性質という、なんだかどうにもおかしなモノである。


 さて、まずは「トウビョウ」という名称について考えてみようと思う。
 この風変わりな響きについて、これだ、と当てられる漢字は決まっていない。瓶で飼われることから「土瓶」「陶瓶」が訛ったものという説があるが、容れ物の名前で呼ぶのはどうにも不自然だ。「トウベイ」が「タフベウ」すなわち「トウビョウ」に転訛した、というのは確かに一理はあるが。
 一説には巻きついて取り憑く蛇の姿を植物の藤に喩えた「藤憑」と呼ばれるのだ、というのもあるが、こちらは狐トウビョウの存在に対しては据わりが悪い。この狐がいわゆる管狐のような小柄で細長い姿なのだとしても、まさか植物の蔓のように伸び上がって人に巻きつくということはなかろう。
 そもそも蛇と狐、憑き物といえど姿も性質もまるで違う二種に同じ名称が使われるというのはなんとも奇妙だ。
 蛇も狐も、それぞれ怪異としてはメジャーなアイドル的存在で、異名も山のようにある。狐であればジンコ、ゲドウといったように。「ああ、これは昔○○村で見たトウビョウ持ちにそっくりだ」と似た性質の憑き物を見た者が名付けたにしても、区別もせずにわざわざ同じ名称を用いるものだろうか。


 そこで私は、『トウメ』の転訛したものという説を支持したい。
 トウメとは『専女』と書き、老女、もしくは老いた狐を指す言葉とされる。
 ここで「狐の憑き物をトウメと呼んだのが蛇にも用いられたのだ」と早合点してはならない。そもそも、なぜ老女と狐が同一の語で語られているのかを考えよう。
 一説にはトウメは『稲女』とも書き、食物を司る女神、もしくは穀物にまつわる祭事を行う巫女を指したとされる。古来より稲作と狐の関わりは縁深く、稲荷神や御食津神(ミケツカミ)=御狐神と、稲作の神と狐の同一視すら感じられる。
 稲作と狐信仰が密接に関わっているなら、その仲立ちをしていたであろう巫女すなわちトウメに狐のイメージが重なるのも不思議ではない。
 では、そこに蛇がどう関わってくるのか。
 狐が稲作に結びつけられる理由として、山と人里を行き来するのが同じく山と人里を行き来する田の神の象徴とみなされたとか、作物を荒らすネズミを捕る益獣であるからなどと言われる。
 同じく蛇も、田の神の化身とされたり、ネズミを食べる捕食者である。蛇の場合水の神との関わりや、脱皮が再生と結びつけられて豊穣や生命のシンボルともされ、古い時代から信仰の対象となっている。
 蛇信仰は各地に見られ、蛇を神使とみなしたり、あるいは蛇神や蛇体/竜体を持つとされる神が今なお信仰されている。出雲大社においては浜辺に流れ着いたウミヘビを神使として祀る祭事が有名である。
 つまり、稲作に関わる祭事を執り行う巫女=トウメが祭事のために狐もしくは蛇と関わる姿こそがトウビョウのルーツなのではないか、と考える。


 ところで、蛇トウビョウの別名として『ヘビミコ』がある。これは『蛇蠱』あるいは『蛇巫』の字が当てられる。後者こそは私の支持する説と一致するが、前者はさながら呪術のような字面である。
 西日本における憑き物において、どうも呪術と類似したものとみなされていた節がある。犬神、猿神、狐憑きなどがそれぞれ犬蠱、猿蠱、狐蠱と呼ばれていたのがその証左である。とりわけ犬神を生み出すための一連の残酷な手法は、まさしく動物の身命を使って行う呪法、いわゆる蠱毒に重なるものがある。
 それを踏まえて蛇蠱=トウビョウを振り返れば、瓶にうじゃうじゃと蛇を閉じ込めて飼う様子など世間一般にイメージされる蠱毒そのものではないか。
 柳田翁の言であるところ「妖怪は零落した神である」は、今日では否定意見が強いが、憑き物においては当たらずとも遠からずなのではないか、と私は考えている。たとえば先祖代々蛇ないし狐を信仰している家があったとして、その家人が蛇や狐を甲斐甲斐しく世話を焼いている姿はよその家からは薄気味悪く見えたことだろう。かつてあった信仰が廃れた結果、いかがわしい淫祠邪教と白眼視されるのは珍しくない。
 そんな偏見と差別が折り重なった末に、「富をもたらすとして憑き物を飼うが、持て余して困っている」というどこか憎めない憑き物筋の伝承が生まれたのかもしれない。

 豊穣を司る神使か、蠱毒にて産み落とされた呪詛か。私の裡に巣食ったモノは、果たしてどちらなのだろうか。

 2/11 兄口誘太郎

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