
「きみはすごいなあ! きっとヒーローになれるんじゃないか⁉︎」
テレビに映る特撮番組のヒーローの姿を見るたび、真賢木の脳裏には幼少期に掛けられた言葉が過ぎる。
かつて彼が生まれ育った宗教コミュニティでは、基本的には集合住宅の一室にひとつの世帯が割り当てられ、家族単位での行動を定められていた。しかし、隣人との交流が禁止されているわけではなく、信仰を深めるための交流は推奨されていたし、子供同士で遊ぶことも特に問題はなかった。
しかし、両親から半ば放棄されていた真賢木は周囲の大人からも遠巻きにされ、連鎖的にその家庭の子供たちからも避けられていた。人恋しがるような性分ではなかったためあまり気にしたことはないが、思えば気にして仲間の輪に入るべく行動すべきだったのだろう、と当時を振り返り思う。
孤立は孤独を呼び、際限なく状況は悪化するのだから。
しかし、どこにも変わり者はいるもので、そうやってすっかり形成された“空気”を無視して真賢木に話しかける子供がいたのだ。
「なあ、何してるんだ?」
児童館の片隅で本を片手に紙に書き物をしていると、誰かが声をかけてきた。
当時四歳だった真賢木よりも大きい、小学生ほどの男の子と、彼と手を繋ぎながらおどおどとこちらを見る二、三歳くらいの女の子だった。
「……字を、書いてる」
他人から声をかけられるなんて久々で、戸惑って返事をするのが遅れた。男の子は興味深そうに真賢木が書き取りをしていた紙を覗き込んだ。
「字の練習をしていたのか? すごいな、誰から習ったんだ?」
当時の真賢木は、ひらがなカタカナ、まして漢字などは小学校に入学してから習うものだとは知らなかった。
両親や周りの大人が字をすらすらと読み、当然のように書いているのを見て、「どうやら字の読み書きを習得する必要があるらしい」と判断しただけだ。
しかし、家で字の練習をしているとなぜか両親から気味悪そうな顔で見られ、時には取り上げられることもあるので、こうして外に出て両親の目がないときに練習しているのである。
そう説明すると、男の子は「すごいなあ!」とますます感心して見せた。
「自分で考えて勉強ができるなんて本当にすごいことだぞ! きみ、とっても偉いやつじゃないか!」
「……ありがとう」
よくわからないが、褒められたらしいので礼を言っておく。
思えば、忌憚なく褒められたのもそのときが初めてだったかもしれない。
男の子は火渡アグニ、女の子は古月てうという名前だった。
「ぼくはお父さんがいなくてさ、お母さんとふたり暮らしなんだ。そういう子供ってあんまり仲間に入れてもらえなくてさ。だから自分で友達を作るようにしてるんだ」
「お父さんは大学で研究してる博士だったんだ。お父さんみたく研究者になって、たくさん科学の発見をしたいから、勉強を頑張ることにしてるんだ」
「てうも自分のお母さんとふたり暮らしでね。お母さんが働いてる時はひとりぼっちだから、ぼくが面倒見てあげてるんだ。妹みたいなものさ」
アグニは聞いてもいない自分たちの事情をよく喋った。
「もちろん、きみのことも弟みたいに思ってるよ。お兄ちゃんって呼んでもいいぞ!」
「………………」
それは遠慮しておいた。
どうやらアグニはひとりきりで過ごす真賢木に思うところがあったようで、てうを連れてたびたび話しかけてきて、「勉強を見る」と言ってあれこれ口出しをしたり、「一緒に遊ぶ」と言ってあちこち連れ回すようになった。
彼がどうしてそこまで真賢木を気にかけるのかはわからなかったが、字の読み書きだけではなく算数の計算も教えてもらったし、倉庫に放置されていたテレビや新聞を見せてくれて真賢木の見識を広げてくれる手助けをしてくれたので、真賢木も彼のことは好ましく思っていた。
ある日のことだった。
いつものようにアグニについてきたてうの手に、小ぶりながらしっかりと宙に浮かぶ風船が握られていた。てうの母親がおもちゃとして買ってきてくれたのを気に入り、そのまま持ってきたのだという。
「外で手放すと空まで飛んでっちゃうから気をつけるんだぞ」
というアグニの忠告も虚しく、てうは不注意で風船の紐から手を離してしまった。風船はふわふわと風に煽られながらどんどん上空へと飛んでいき、アグニの身長でも手が届かなくなった。
「ああっ! てうのぷかぷか!」
「あれは……もうだめだ。飛んで行ったらもう手遅れだ」
「やだっ! てうの! おかあさんがくれたぷかぷか!」
諭されても納得せず、てうは空の風船を見上げながらしくしく泣き始めた。
――あのくらいなら、届くな。
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
真賢木はその場で飛び上がると、およそ五メートル以上は上昇していた風船の紐に手を伸ばし、しっかりと掴み取った。
「ほら、取れた」
着地し、風船を渡そうとすると、てうはきょとんとした顔で風船と真賢木の顔を見比べた。アグニも驚いた表情で真賢木を見ている。そこで初めて、普通の子供はあの高さまで跳躍できないのだと気がついた。
――常識から存在は排斥される。
両親と対話を試みて、異様なものを見るような眼差しで見られた日のことを思い出した。
「――すごいなあ!」
しかし、アグニは再び真っ直ぐに真賢木を褒めた。
「てうもそう思うだろ⁉︎ あんなふうに高くジャンプできるなんて、まるでヒーローみたいだ!」
「うん……ミロクおにいちゃん、すごい」
今度は真賢木が呆気に取られる番だった。このふたりは真賢木が何をしても怖がったり嫌がったりしないのだろうか? 明らかにおかしい彼を、おかしいからと遠ざけるつもりはないのだろうか?
「ヒーローって、何?」
疑問は尽きなかったが、口にできたのはそれだけだった。
「ミロクは見たことないんだっけ? えーと……お、もうちょっとしたら時間だな。おいで、ヒーローを見せてあげるよ!」
そしてアグニはミロクを倉庫に誘い、テレビを操作してちょうど放映時間となった特撮番組を見せた。
「ヒーローっていうのは、人よりもすごい力で悪いやつと戦ったり、困っている人を助ける人のことなんだ」
顔がすっぽり隠れる仮面にぴっちりと体に張り付くスーツを纏った妙な装束の男女が、同じくらい珍妙な姿をした敵と戦う話だった。テレビの中で活躍する彼らは、高所から軽々と飛び降りたり、パンチで敵を遥か彼方まで吹き飛ばしたりと、人間離れした動きをしている。
「誰かを助けられるような力を持つって凄いことなんだ。ミロクのその力も、きっとヒーローになるために生まれもったんだと思うぞ」
そう言って、アグニはにこっと笑った。
彼なりに真賢木の身の上を気にかけた上でそう言ったのだと今ならわかる。
ただ、その時の真賢木は、テレビの中のヒーローたちを見て別のことを考えていた。
理由があれば、名分があれば。
――受け入れやすい形をしていれば、どんな力を持つ異形であっても、人々に受け入れられるのだろうか。
アグニたちとの触れ合いはとても有意義で、真賢木にとって離れがたいものだったが、その日々は数年後にあっさりと、唐突に終わりを告げた。
“子供への洗礼”という名目で、集会場にコミュニティ中の家族が集められていた。
なんでも、一定以上の年齢の子供は洗礼によって生まれつき持っている“祝福”が明らかになるのだという。祝福とは俗に言う超能力のようなもので強い祝福や珍しい力を持っている子供は家族から離され力の使い方を学ぶ訓練を施されるのだそうだ。
「お母さんをひとりにしたくないから、あんまり変な祝福じゃないといいな」
そう言って苦笑いするアグニはその年の洗礼の参加者に含まれていた。一方、まだ幼いミロクとてうは今年も見学だった。
遠くから教団の神官たちが参加者の子供に水や油をかけたり何やら呪文を唱える姿を見る、特に面白いこともない儀式。
アグニの順番が来たときも、そんなふうに何事もなく終わるはずだったのだ。
彼の体が、突然業火に包まれるまでは。
何が起きているのか、その場にいる誰も理解できなかった。彼の周囲には火気は一切存在しなかったし、あったとしても、たかだか頭に少量香油を懸けられた程度で全身が燃え上がるなんて異常事態だ。まるでわけがわからないまま、アグニの体は松明のようにごうごうと燃え盛る。
そしてその火が周囲の物品に、彼の近くにいた神官に燃え移るのにもさほど時間はかからなかった。
火はまるで、その場の全員を燃やし尽くそうという悪意があるかのように広がっていった。
集会場は地獄絵図と化した。
火を消そうとして逆に火が移り被害を拡大させてしまう者、パニックになって走り回る者、その場にうずくまり祈り続ける者。誰も彼もが助けを求めていたが、誰ひとりとして有効な行動をとることができなかった。「集会場から脱出すればいい」といい単純な解決策を誰も思い浮かばなかったのはパニック状態だったからだろうか? 集会場が儀式のために施錠され、その鍵は今まさに火に焼かれている神官が持っていると知っていたからだろうか?
冷静だったのは真賢木ただひとりだけだった。
(助けなければ)
事態を把握した真賢木はアグニの元へ向かった。なんにせよ、彼の体から火を消さなければ。しかし、どうやって? 儀式のために用意されていたから水はある。しかし精々壺に一杯入っている程度で、この規模の火を消せるようなものではない。火事を消すなら消火器を使うのだったか? 集会場のどこに設置されているだろう?
何もできないまま逡巡しているうちに、燃えている彼と目が合った。
「ダメだ、はやくにげろ」
火に巻かれた彼に声を出す余裕などないはずなのに、唇が確かにそう動いた。
彼の瞳が、「ぼくを見捨てて逃げろ」と語っていた。
そんなことが許されるはずがない。きみを見捨てていけるわけがない。きみはおれを見捨てなかったじゃないか。
そう言いたかったのに、彼の体が黒く焼け焦げていくさまを前に、何も口にはできなかった。
――ああ、もう彼は助からないのだ。
彼の指は、手足は、どんどんと用をなさない炭と化していた。
ごめん、という一言を口にできた自信すらもない。
真賢木にできたのは、彼に背を向けて他の人間を助ける術を探すことだけだった。
背後からどん、と人の体が倒れる音が大きく響いた。
なんとなく、“ヒーロー”ならばこんな真似はしないのではないか、という考えがそのとき浮かんだ。