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 幼い頃から、どうも兄のことが苦手でならなかった。
 兄口招太郎には兄がひとり居る。とは言っても、事実に照らして表現するなら「居た」とするほうが正しい。
 旧家である兄口家は、本来長男である兄──誘太郎が継ぐはずであった。しかし、彼は三歳になっても言葉を話せず、どころか誰の声にも反応せずぼうっとしている子供だった。白痴か、良くても聾唖であろうと判断され、後継の座は早々に年子の弟である招太郎に渡されることになった。
 そんな経緯があって、家中の誰からも腫れ物扱いされていた兄を、弟である招太郎も兄扱いすることはできず、むしろ不気味にすら感じていた。
 自分たちの生活スペースから兄の存在は切り離されていたが、ある時、ふとした拍子に出くわしたことがあった。
 珍しく父母が揃って不在で、まだ乳児だった妹の面倒を自分が見てやろうと子供部屋で張り切っていたら、唐突に兄が姿を現したのだ。
 異様だった。
 子供部屋に子供が入ってくる――それ自体はなんらおかしなことはないはずなのに、兄の纏う空気、あるいは気配。それを感じた瞬間、招太郎は全身の肌を粟立たせた。
 動物園の檻の中に裸の人が立っているような、アパートの一室に象が居たかのような、有り得ざる――いてはならない存在がそこに在るかのような違和感。
 目は合わなかった。
 というよりも、兄は自分たちの存在に気づいてすらいなかったのかもしれない。兄の視線は、自分たちが周囲の畳や襖と同化しているかのごとく素通りしていき、やがて踵を返してそのまま去っていった。
 ――“あれ”は、違うんじゃないか?
 当時三歳の招太郎は、幼いながらに思った。
 両親や祖父母は“あれ”を、何も理解できない子供だと思い込んでいるが、そうではないのではないか、と。
 兄口家は、古くは呪い師、今は霊能者として生計を立てる一族である。
 他人に呪いをかけたり、逆に呪い返したり、霊や怪異を口寄せたり、あるいは祓ったり。そういう生業をしていると、人ならざるモノに手を出している因業のためか、子供が“そういうもの”――要するに知的障害とか精神遅滞とか言われる病気だ――を持って生まれてくるのが珍しくないのだという。
 大昔にはそういう子供を憑座、依童として霊媒に使っていたこともあったそうだが、さすがに二十一世紀にそのやり方を試みる人間はいないらしい。
 暴れたり問題を起こすようであれば閉じ込められたのだろうが、終始ぼんやりと徘徊するだけで特に大きな悪さもしないため、必要な世話以外はそこまま放っておかれていた。
 だから、取り立てて邪険にもされないが省みもされない、それが誘太郎という子供だった。
 自分が覚えた違和感を、誰か家人に伝えるべきなのか。言ったところで、怖がりな子供の戯言として聞き流されるだろうか。
 招太郎の悩みに答えは出ないまま、ある日事件が起きた。

 

「トウビョウ?」
「誘太郎……お前たちのお兄さんは、悪いモノに憑かれてしまったんだ。お父さんたちが祓い落とすまで、決してお兄さんに近づいてはいけないよ」
 家中が上を下への大混乱になっているのを訝しむ招太郎に、父はそう説明した。
 なんでも、兄は知らぬ間に“いみ山”――兄口家所有の山にある、いわくつきの呪物などを安置する蔵に入り込み、その中の呪物の封を解いてしまったらしい。
 この家から山まで十数キロはあり、とても子どもの足で行けるはずがないのに。
 だが、招太郎は内心「“あれ”ならそういうこともあるのだろう」と納得していた。十数キロ先の山にいようが、海を越えて本州にいようが、遠い富士の山頂にいようが、あの兄ならば何ひとつ不思議ではない。
 兄がそういう力を持っていることを、少なくとも家族の誰より先に看破していた。
 ともあれ、問題はトウビョウとやらである。なんでもこの憑き物は、憑かれた当人よりその周囲に被害をもたらすタイプであるらしい。だから下手なことをすると大変だと大人たちは慌てているようだった。
 もちろん、父も祖父も手練の霊能者である。多少手はかかれど、問題なく祓うことができるだろう。だから心配せず、招太郎と妹はそれまで離れに避難しているように、と父は言った。
 その言葉に歯向かうほど招太郎は愚かではなく、住まいを昼夜問わず除霊が行われている母屋の子供部屋から離れに移すことになった。
 とはいえ、急な話である。まだ幼児とはいえそれなりに分別のついてきた招太郎とは違い、まだ妹は乳離れもしていない赤ん坊である。母の代わりの世話係はついたが、いきなり母と離されてむずがらないわけがない。
 衣類やおむつなどは既に充分な用意があったが、おもちゃの類は母屋に置き去りにしてきてしまった。泣いて世話係を困らせる妹を見て、せめて愛着のあるおもちゃのひとつやふたつは持たせてやりたい、と招太郎は考えた。
(お祓いをしているのは本邸の大広間だから、子供部屋に行ったって問題はないはずだ)
 当然大人たちの邪魔をするつもりなんて毛頭ないけれど、見つかれば怒られるに違いない。大人たちに見つからないよう慎重に母屋へと戻った。
 うっかり話を聞いてしまったのは、その最中だった。
「――殺してしまえと言うのですか⁉︎ 自分たちの孫に対して⁉︎」
「最悪の事態を覚悟するべきだと言ったんだ」
 子供部屋に向かう途中の部屋から、障子越しに父と祖父の声が聞こえた。何やら緊迫した雰囲気で、父はほとんど声を裏返している。
 兄の話をしているのだ。招太郎は無意識に足を止め、会話に聞き入った。
「“あれ”はただのトウビョウではない。ある一族が、古の神を呼び覚まそうとして作り上げた蛇蠱だ。当時の当主も祓いきれず、残った一匹を封印するのが精一杯だったそうだ」
「イヌガミならまだしもトウビョウですよ⁉︎ 対処のしようはあるはずだ! あの子から蛇を引き剥がすことができれば……!」
「それができんから言っておるのだろうが!」
 会話の意味すべてを理解できたわけではないが、どうやら状況は思っていたより深刻らしい。兄に憑いたモノはそんなに厄介なのか、と固唾を飲む。
「……とにかく、このまま除霊が進まんようであれば、“これ”を使う」
 祖父はそう言って、何か重いものを取り上げる物音を立てた。
 テレビの時代劇で、侍が刀を構える音によく聞こえた。
「父さん!」
 父の悲鳴。招太郎は今になって自分が何か聞いては行けない話を聞いてしまったことに思い至り、目を伏せてそっとその場から離れようとした。
 何の気なしに見た足元に、蛇がいた。
 時折庭先でも見かけるアオダイショウのような大きさではなく、小さな、うっかりすると虫と見間違えそうな小ぶりさの、しかし艶やかな鱗を持つ白い蛇だった。いつからそこにいたのか、まるで招太郎と並んで話を盗み聞きするように障子の前に這っている。
 “これ”は良からぬモノだ――本能的にそう直感した。
 なんとも奇妙な話だが、この蛇に今の話を聞かれたのは非常にまずいことだと招太郎は感じた。どこから来てどこに行くものか知らないが、このまま蛇を取り逃がすと悪いことが起こると真剣に思ったのだ。
 蛇の金色の瞳と目が合う。次の瞬間、蛇は恐ろしいほど俊敏な動きで招太郎の前から逃げ去る。
「……待てっ!」
 父たちに気づかれぬよう声と足音を殺しつつも、招太郎は必死でその後を追う。なんとかしてあの蛇を捕まえなければ。最早当初の目的である子供部屋のことも忘れ、無我夢中で蛇を追いかけた。
 母屋の中を走り、今まで通ったことのない廊下を歩き、やがて存在すら知らない地下へと続く隠し階段に辿り着く。押し入れそっくりに作られた、普段は閉じられているだろう引き戸は、その時に限って半端に開いていた。明かりが少なく薄暗がりに包まれた階下に怖気付きながらも、その下へと姿を消した蛇を追っておっかなびっくり階段を降りる。
 当時の招太郎は知る由もなかったが、それはいわゆる座敷牢だった。
 白痴として生まれ、手をつけられないほど暴れる者や、霊媒によって気が触れた者をかつて閉じ込めていた場所だということは、後になって知ることになるのだが――当時の招太郎は畳張りの部屋に頑丈な牢が取り付けられている光景に、ただただ圧倒されるのみだった。
 蛇の姿を目で探すと、あの小さな白蛇は牢の隙間を悠々と通って中に入っていくところだった。そして、牢の中に居たのは――
「――兄さん?」
 そう呼びかけるのも、それが初めてのことだったのだが。
 身の丈に合わない白衣を着せられた誘太郎がそこに座っている。怪我をしているのか、あちこちに包帯を巻いた状態で。弟の声に顔を上げた彼は、感情を見透かせない昏い顔をしていた。
 その右目は穿たれたようにぽっかりと空洞になっていて――そこにあの白蛇が這い、中へと入っていく。
「――――――」
 絶句した招太郎に対し、誘太郎はゆるゆると腕を動かして口の前に人差し指を立てた。静かにするように呼びかけるあのジェスチャーだ。
『今見たことはすべて黙っていろ』――そう言いたげに兄は弟に微笑んだ。
 それ以降の記憶は、ひどく曖昧だ。
 我に返った招太郎は、離れに割り当てられた自分の部屋にいた。隣の部屋からは妹の泣き声とそれをあやす世話係の声が聞こえる。
 夢でも見たのだろうかと思った。思い返せば記憶の中の出来事はひどく非現実的で、兄がどんな憑き物に憑かれたのだとしてもあのようなことになるはずがないのだ。
 それなのに招太郎は震えが止まらず──兄に対する畏怖心も決定的なものになっていた。
 あの後結局、兄の憑き物は祓うことができず、一族間の協議の末、霊媒に関わらず一般人として暮らす傍流筋に預けられることになった。霊や怪異に近すぎる環境にあると、憑き物が余計に悪いことをする、という理屈で。
 そんなのは言い訳で、“あれ”を身近に置いておくのが怖かったのだろうと招太郎は考えている。
 お祓いがうまく行かず、祖父と父が話していたことも実行されなかったということは、きっともう兄口家の誰ひとりとして“あれ”には太刀打ちできないということなのだから。
 それ以降、兄もとい兄だった人との関わりは一切断たれ、招太郎が独り立ちした今に至るまで接触はまったくないのだが、それでもふとした拍子にあのときの光景を思い出してしまうときがある。
 “あれ”ははたして、何者だったのだろう。
 

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