祖母曰く、幼い頃の私はいわゆる白痴のようであったそうだ。
親や親類が声をかけても反応を示さない。何を見ても笑いも泣きもしない。三歳になっても言葉どころか声のひとつも発さない。
兄口の家は呪い師、畢竟、人の怨念や因業に関わるなりわいである。家の者は私のことを、先祖からの営みによって積み重なり絡まった業、あるいは呪詛によってそう生まれたのだと推量した。
『あの子は宿業によって耳目を塞がれた可哀想な子なのだ』――と。
私に言わせれば、それは正確な評ではない。両親の声が聞こえなかったわけでも、家の者の顔が見えなかったわけでもない。
ただ、どれが何なのかわからなかったのだ。
五歳ごろまでの私の視界および聴覚はひどく混沌としていた。目を開ければ隅から隅までぎっしりと“よくわからないモノ”が蠢くのが見え、耳を塞ぐのをやめれば歓楽街の雑踏ともパチンコ店の喧騒とも違う騒がしい“声”が聴こえていた。
兄口の家は親類や使用人も含めると常に大勢の人間がいたが、それ以上に“人ならぬ者”が跋扈していたのだ。
母に笑いかけられても、母の顔を霞状の姿をした“何か”に遮られる。父や祖父に声をかけられても、耳元で騒ぐ猿のような“何か”に掻き消される。
見ようにもよく見えなかったのだ。聞こうにもよく聞こえなかったのだ。
代わりに――良くないモノは能く見えた。
だからきっと、あの日右目を失わなければ私はきっと祖母曰く白痴同然の生涯を過ごしたことだろう。
人間界を認識できないモノが、人間として生きられるわけがない。
五歳ともなると周りの人間も慣れたもので、私のことを『そこに居るが居ないモノ』として扱うようになっていた。
縁側でぽつんと佇んでいても、屋根裏部屋で寝転んでいても、廊下の真ん中で宙をぼうっと眺めていても。
『あの子はそういう子だから、気にすることではない』――と、精々朝夕の飯時に連れ出す以上のことはしなかった。
対する私といえば、まだ人間というものをとんと理解していない時分だから、そういうものとして当然に受け入れていた。
思えば、生業とする以上霊感を持っているだろう父や祖父が、私の状態に何も疑問はなかったのか引っ掛かるところではあるが。
まさか息子/孫が、自分にも見えないモノを見ているなどとは思いもしなかったのか。
閑話休題。
とにかく、やんわりめに放置されていた私の扱いが一変したのがこの頃である。
家から一歩も出ていないはずの私が、神隠しのように姿を消したのだ。
見て見ぬフリが常態化していたとはいえ、さすがにこれは家人達も放っておかない。家中をひっくり返したが長男はどこからも出て来ない。ならば外に行ったかと捜索を家の周辺に広げるが、やはり見つからない。
事件性すら出てくる。
家の体面上警察にこそ届けなかったものの、いよいよ焦った親族達は捜索範囲を十数キロにまで広げ、子供の足では到底行けぬような場所にまで聞き込みをするようになった。
果たして、行方不明になってから三日ほど。兄口家所有の山の管理人が「山道を歩いている子供を見た」と証言をしたことでついに事態は好転した。
山中でたったひとり、大怪我を負っている子供を発見したのを幸運といえるのかはわからないが。
兄口家所有の山、通称“いみ山”は古くは霊能者が潔斎を行ったり、呪詛や調伏の儀を行うための霊場で、今は先祖が封じた呪具や呪符を安置するために使われていた。幼い私が発見されたのは、そういった呪物が山程積まれた蔵の中であった。
右目から血を流し、その痛みに苦悶しているところを。
あんなところに子供が一人で行けるわけがない、と何度も詰め寄られたが、行けてしまったのだから仕方がない。
家から二十キロ近く離れていようと、獣道すらろくにない未整備の山であろうと、実際そこにいたのだから行けたのだろう。
どうやって、と聞かれても。
とにかく気づいたら山中にいた私は、ふらふらと彷徨ううちに蔵の前に辿り着いていた。家のそれによく似た様式で、ならばきっと中には面白いものがあるに違いないと考えた。
家の者とは言葉も情も通じぬ私だったが、年相応の好奇心はあった。たびたび家の蔵に忍び込んでは古めかしい打掛や読めもしない古書を眺めるのが好きだったのだ。
山中の蔵には大きな錠が掛かっていたが、私が触れた途端にがちゃんと音を立てて外れてしまった。錆びてお釈迦になっていたのだろう。
入ると、声が聞こえた。家で聞く“声”同様、意味を読み取れない鳴き声のような音だったが、なぜだか私を呼んでいるように聞こえた。
生まれたばかりの乳児が母を求めるときのそれのような、根源的な――本能的な音声。
足を向ける。
そこにあったのは、当時の私でも容易く持ち歩けそうな大きさの小さな甕であった。蓋がされており、それを覆うように何枚も文字が書かれた札が貼られている。声はどうやら、この封を剥がして開けてほしいと乞うているようだった。
誰か助けて、ここから出して――と。
なぜ、この中にいるのだろう。
この中に居るモノは、どうしてこんなところに閉じ込められてしまったのだろう。
なぜ、こんな誰からも顧みられない場所でたったひとりで居るのだろう。
哀しげに助けを求める“声”に、無性に心がざわついた。
何しろ“ここに居る意味がわからない”のも、“たったひとりで顧みられず、閉じ込められている”のも、覚えがあった。
誰かここから出してくれ。
そう願っているのは、私も同じだった。
気づけば私は甕に貼られていた札をすべて剥がし、蓋を開けていた。
中に入っていたのは小さく痩せ細った、掌に収まる程度の大きさの白い蛇であった。
ああ、可哀想に。
私は甕の中に手を入れ、蛇を掬い上げた。
おいで。
確か、そんな言葉を口にして。
――その蛇がにやりと笑うように口を開けて、私の右目に向かって突っ込んできたのだった。
中国・四国地方には、“トウビョウ”という憑き物の伝承がある。
曰く、その姿は蛇。瓶や壺に入れられて養われ、飼い主の家を裕福にし、飼い主の意に沿わぬ人間に害をなす。
あの日私が開け放った甕と蛇はそういうモノであったのだ。
飼い主に放り出され、長年甕の中に閉じ込められていたところをやっと解放された。これが人間相手ならば多少は恩義を感じるのだろうが、相手は蛇――しかも呪いや怪異の類である。
蛇は目の前にいた私をこれ幸いとばかりに喰って、あまつさえ新しい根城にしようと考えた。
つまり――右目を喰らい、開いた眼窩から私の中に入り込んだのだ。
これを見つけた家人達は当然泡を食った。何しろ禁じられた呪物の封を解き、封じていた怪異に憑かれているのである。
親族総出で憑き物落としやら呪詛調伏やらの儀式を連日執り行ったらしいが、悲しいかな効果は上がらなかった。
一時は『この子ごと始末してしまえ』という意見すら出ていたらしい。人権意識の高い時代の法治国家に生まれていたことを感謝するしかない。
一方で当の私はというと、蛇が体内に入ったわりにはあまり不便を感じていなかった。
喉元過ぎれば熱さ忘れるとはこのことで、右目の痛みさえ引けば特に何も変わったことはなかったし。
……いや、変わったことがひとつ、大いにあった。右目を潰して以来、私の視界は激変したのだから。
いくら閉鎖的な旧家といっても、子供の目が潰れていれば医療に頼るほかない。発見された私は山中から直ちにかかりつけ医のもとに運ばれた。
病室のベッドに寝かされ、鎮痛剤でやっと我に返ることができた私は、ふと傍らに男女が座っていることに気がついた。
見覚えのあるようなないような――というより、それまで“人の顔”を見慣れることができなかった私なのだけれど――男女が口々に云う『ゆうたろう』という単語は、どうやら私を指しているらしかった。
そして、そこで私は生まれて初めて人間の顔と声というものをはっきりと認識したのだった。
――恐山のイタコを初めとして、視覚などに障害を持つ人間が霊能の生業に就くのは、一説には失った感覚をカバーするためにいわゆる霊感が発達するからだ、などと聞くが――私の場合はおよそ逆の現象が起こった。
右の視力が失われたことにより、私の霊感も幾分か欠落したらしい。
少なくとも、両親の顔を視認できる程度には。
あるいは、それは蛇からの礼だったのかもしれない。呪詛なりの方法で恩返しをした結果、右目の代わりに文字通りの“人を見る目”を与えたのか。
……馬鹿馬鹿しい。怪異とは現象。そんな意図などあるものか。
たとえそれがトウビョウからの祝福だったとしても、結局私自身はちっとも幸福になどならなかったのだから。
人間界を知ったところで。今更両親の顔を知ったとて。
私の傍らには生来ずっと、“良くないモノ”達が居続けたのだから。
私は未だ、自分が人間であるという実感が持てずにいる。