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 その青年の笑顔が、頭蓋の内側にある虚無を覆い隠すためのものであることを、私は見た瞬間に察した。

 拝霧栄青年に対する第一印象は、“異様”以外に言い表せる言葉がない。
 彼との対面は、大学時代の知人の仲介によって実現した。
 発端は四月頃。インターネットコミュニティでの投稿や友人知人を通じて旧芯張村に関する情報提供を求めたところから始まる。現在ネットロアとして語られている胡散臭い怪談話ではなく、災害当時の報道内容や、あわよくば近隣の市民からの証言が聞けないか期待したものだったが、知人の一人が芯張村出身者である霧栄青年と知り合いだったのは予期しない僥倖だった。
 メッセージを送ってくれた彼にすぐさま面会の約束を取り付け、顔を合わせたのが五月下旬のことである。
「あ、ひょっとしてお兄さんがアニグチさん?」
「……ええと」
 待ち合わせ場所は都内某所のカフェ。目印となる服装として、彼はグリーン系統の服と赤いストールを指定していた――二十一歳の現役大学生、きっと世のトレンドに合わせたファッショナブルな洋服を着ているのだろう、などという私の予想は偏見を含んでいたのだろうか。
 いや、彼のことは一目見てすぐそうとわかった。何しろ、当日の彼は原色グリーンの着物に迷彩柄の羽織を纏っていたからだ。既に塔のように長大なパフェを注文し、トッピングのシガレットクッキーをぽりぽりと食べている。店内でとりわけ目立つ雰囲気で、見間違えようもなかった。
「……君は拝霧栄くん、でいいんですね?」
「そうだよ。よろしくね、アニグチさん」
 彼こと霧栄青年はにこにこと笑い、自分の座っていたテーブル席の向かい側に座るよう促してきた。私は彼の恰好に度肝を抜かれつつ、カフェ店内の他の客の目を気にしながらそこに座る。──座ろうとして、
「ふぎゃ!」
「え? ……ええっ!?」
 ──座ろうとして、霧栄青年に注目しすぎて足元に不注意だった私は椅子の脚につまずいて思い切り転んだ。
「ちょ、ちょっと、大丈夫!?」
 いきなりのことで取り乱す霧栄青年の声が天地逆に聞こえる。私が床に倒れると同時に、つまずきの原因となった椅子ががたがたっと音を立てて横転した。近くの席から小さい悲鳴が上がったり、店員がすっ飛んでくる足音もする。店内一時騒然、といった様相である。
 原因が私なのだから、汗顔の至りとはこのことだ。
「大丈夫ですかお客様!?」
「だ、だいじょうぶです……おっちょこちょいで転んじゃっただけで。怪我もないですし……」
 膝をしたたかに擦りむいたのを悟られないように、無事であることを必死でアピールして店員にお引き取りいただく。霧栄青年からの心配半分不信半分の視線をちくちくと浴びながら立ち上がり、起こした椅子に座り直した。
「すみません、お見苦しいところを」
「え、あ、うん……本当に大丈夫?」
「昔からドジなもので……気にしないでください、慣れてますから」
 気にしているのは私の無事というよりも、初対面の人間の前でいきなり転倒する不審な輩と知り合いになっていいものか、といったところだろうなと彼の表情からなんとなく察しつつ、その場しのぎにむにゃむにゃと言っておく。
 あ、脇腹に妙な痛みが走っている。この痛みは確か、あばら骨が良くないことになっている兆候だ。
「改めまして、今日はお時間をありがとうございます。僕は兄口誘太郎、在野で民俗学の研究をしています。どうぞよろしく」
 私は名刺を差し出しながら、霧栄青年を改めて観察した。上記の通りに目を引くグリーンの着物に、赤いストール。髪は長く、奇抜な色に染まっていたが、彼の顔立ちが整っているためかそれほど違和感を感じさせない。しかしどうにも目立つ外見なのは否めず、先程から他の客の視線をいやに感じる原因の一端は彼の容姿であろう。
「ザイヤの……研究家?」
 彼はパフェを突いていたスプーンを置いて名刺を訝しげにすがめた。
 『民俗学研究家・兄口誘太郎』──それほどおかしいことは書かれていないと思うのだが、馴染みがなければ胡散臭く見えるものだろうか。
「重渕さんからは大学の先生が芯張村のことを研究したい、って聞いたんだけど……?」
 知人が勝手に聞こえのいいように適当な紹介をしたらしい。重渕の奴め。
「ちょっと伝達ミスがあったみたいですね。僕は大学や研究所には所属していない在野の──フリーの研究者なんです」
「アマチュアの学者さんってこと?」
「……まあ、そんな感じです」
 大学生のはずだが、この様子では特定の学問に傾倒しているわけではなさそうだ。
「君は拝霧栄くん──登仙大学社会学部の二年生、ですよね?」
 知人から聞かされたプロフィールを確認する。気を取り直したらしい霧栄青年は朗らかに「うん」と頷いた。
「あ、あとYouTubeもやってるんだ! よかったらチャンネル登録してくれると嬉しいな!」
「ゆ、ゆーちゅーぶ?」
 チャンネル登録。
「あれ? お兄さん、あんまりインターネットやらない人?」
 思わず硬直した私に、霧栄青年は再び珍獣を見るような眼差しを送る。
「い、いえ、知ってますよ、YouTubeくらい。世界最大の動画投稿・配信サイト。……ということは拝くんは、いわゆるYouTuber――動画投稿者なんですか?」
「そうだよ。あ、あとTikTokもやってる!」
「はあ」
 馴染みのない文化についつい生返事をしてしまう。
 私が彼くらいの頃にはまだネットで実名や顔を出すのはリスクの伴う行為だというのが定説だったと覚えているが、スマートフォンが普及した現代では老若男女がインフルエンサーにならんと堂々と活動している。彼の奇抜な恰好も、耳目を集めるための工夫というわけか。
「ちなみに、どんな活動を?」
「歌と食べ動画だよ。最近だと――」
 と、揚々と自分の活動について語る霧栄青年。ニコニコと笑い、時折パフェに盛られたフルーツを食べる姿は無邪気な子供のようだ。
 明朗な青年だった。十年前の悲劇の渦中にあり、唯ひとり生き残った少年の面影は感じられないほど。
 もちろん、一見してわからないだけで、被災体験が心的外傷として残り続けている可能性は考慮しなければならない――今回の“取材”で彼の少年期の記憶を掘り起こさざるを得ない以上、気を抜かず、慎重に対応しなくては。
「お待たせしました」
 と、店員が我々の席にやってくる。トレイの上には転んだ時ついでに店員に頼んだ私の分のコーヒーと――
「スノーマウンテンパンケーキをご注文のお客様?」
「あ! ぼくぼく!」
 と、いつのまにか空になっていたパフェグラスを店員の方へ寄せながら、霧栄青年は店員が持ってきた皿を受け取った。二枚のパンケーキ……の上にそれこそ山のようにうずたかくそびえ立った生クリームと、それを取り囲むようにシロップが湖の如く揺蕩っている。
 え? これを食べるのか? パフェを食べた直後に?
「凄い……ですね」
「これ、このお店の人気メニューなんだ。お兄さんも食べてみたら?」
「い、いえ……」
 迷いなくパンケーキを切り分けながら、霧栄青年。冗談ではない、私は首を振った。
 見ているだけで胃もたれがしてくる。
 若さとは食欲とスタミナなのか。
「……ええと。食べてる最中に申し訳ないんですが、本題に入っても?」
 一旦コーヒーに口をつけ、意識を切り替えた。
「うん。芯張村のことだよね?」
 生クリームとシロップで原型が見えなくなったパンケーキの小片を口に入れつつ頷く霧栄青年。
「どんなことを聞きたいの?」
「差し支えなければ、できる限りなんでも。僕の分野は伝承とそれにまつわる習俗……ええと、村独自の言い伝えとか、昔からの習慣のことなので」
「歴史みたいなこと? うーん、でも、あんまり自信ないな……子どもの頃のことだし、ぼくあんまり村のこと知らなかったから……」
「そうですよね……」
 トラウマ以前に、小学生の頃のことなど大概の人間はうろ覚えだろう。さすがに無理があったか。
「どんなに些細なことでもいいんです。ご飯を食べる前にこんなことをする決まりがあったとか、お祭りでどういうことをしたとか……どんな情報でも貴重なんですから」
 内心では半ば諦めつつも、私はしつこく食い下がった。民俗学において、生きた人間ほど重要な一次資料はない。書物や碑には残らない口伝、仕草や舞踊、暗黙の了解、観念や価値観――記録に残されないものを如何にして採集していくかが取材の本質といっても過言ではなかろう。ことに芯張村においては彼が現在ただ一人の証言者なのだから。
 ――何より。籠目選恵の死に繋がる手がかりは、おそらく彼と関連しているはずなのだから。
「もちろん、相応の謝礼も用意します。無理なお願いなのは承知の上ですが、なんとか考えていただけませんか?」
「ううん……」
 霧栄青年はナイフとフォークを置いて唸った。
「お兄さんにとって、そのみんぞく学ってそんなに大事なの?」
「ええ、もちろん」
「人生を捧げられるくらい? 命と同じくらい?」

「神さまに誓ってもいいくらい?」

 思えばやけに子供じみた、奇妙な言い回しだった。人生だの命だの、物知らずで無邪気な子供が使うのでなければあまりに重すぎる言葉だ。
 だが、当時の私は彼の発言の不自然さに気づくこともなく、何も考えずに聞き流していた――それがどんなに致命的な事態に繋がるとも知らず。

「はい。私は民俗学に命を懸けてますから」

「……わかった」
 と、霧栄青年は頷いた。顔には相変わらず笑みが浮かべられていたが、少しそれに影が差したように見えた。
 どこか見覚えのある表情だった。
 すべてを諦め、そうあれかしと定められた役割を淡々と演じているような。
 道化の憂鬱。社会性の仮面。
 不可視の牢獄で無為に延命させられた生を送る、それだ。
「お兄さんの望みに応えられるよう、頑張るよ。神さまとして」
「……拝くん」
 自分が何かおそろしい失言をしてしまったのではないかと遅まきながら気づき、発言を訂正しようと口を開いた刹那――手の甲に妙な感触が走った。
 手元を見、絶句する。
 私の手の上には鉛筆程度の長さの細長い蟲がうぞうぞ、くねくねと這い回っていた――何匹も。
 何匹も、何匹も――何百匹も。
 それはテーブルを這い回り、あるいは飲み掛けのコーヒーから今産まれたばかりのごとく這い上がり、あるいはぽたり、ぽたり、と宙から雨粒のごとく滴り落ち。
 そしてあるいは、テーブルに置かれた霧栄青年の手から、うぞうぞと私に向かって這い寄ってきていた。

 

(続)
 

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