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 束の間、白昼夢を見た。
 私の体は全身すっかり水に浸かっていた。藻や得体の知れぬ浮遊物の漂う、どろりと粘質な湖沼のごとき水。当然呼吸など叶わず、喘いで口から気泡が漏れるたび、体内に不愉快な味の液体が侵入してくる。
 急いで水面に浮上しなければ、ともがこうとするも、裏腹に体はどんどん水底へと沈んでいく。これはおかしい。手足が言うことを聞かぬ。見れば、私の四肢には無数の黒い条虫が絡みつき、それが重石となって自由を奪っているようだった。
 あたかもそれら全てが一個体の生命を成しており、私を捕らえ喰らおうとしているかのように。
 どうにもできず、私は誘われるまま沈み続ける。やがて見えてきた水底には人影らしきものがあった。光の届かぬ深淵、最早茫洋としたシルエットが見えるばかりで姿形は判然としない。しかし何故か、“それ”が私を此処に招いたモノであると直感した。
 あれこそがこの異界のカミなのだ。
 なんの疑問もなく、そう思った。
 “それ”も私の到着に気づいたようで、沈んでくる私を見上げて口を開くような動作を見せた。
 笑っているのか。
 まれびとを歓待し、もてなそうというのか。
 仄暗く光る赫色の瞳からは、如何とも真意が読めなかった。

 

 私の実態は間違いなく霧栄青年と待ち合わせたカフェにあった。変わらずそのまま席に着き、霧栄青年と向かい合っている。
 一方で私の意識はあの忌まわしい水の中にあり、霧栄青年ではなく水底に鎮座する神性を見つめているのである。
「――――――」
 霧栄青年の口を通して、水底に居るモノが云う。まったく人語には聞こえぬ、泡が漏れる音、がちがちと顎が開閉する音が、意味を成した言葉であるかのように噛み合った。
 曰く、供物が要るのだとか。
 曰く、願いに値するだけの対価を以って、契りが成立するのだとか。
 おおよそそのような意味合いを、“それ”は訴えているようだった。
 他には何も聞こえない。先程まで聞こえていた他の客の話し声、店員の足音、その他様々な雑音が一切消失している。異様な静寂の中、“それ”の発する音だけが私の耳へ、鼓膜へ、脳へと入り込んでくる。
 脳髄に侵入した音は蟲のように神経を喰み、髄液を啜っていく。
 卓上をのたうちまわり、手を這い、腕を伝い、私にまとわりつく蟲共は、果たして此岸の光景か、意識の溺れる白昼夢の生んだ幻覚か。身動きの取れない私にぬるりぬるりと張りついては、まるで棲家を求めるようにもぞもぞと動き回る。蟲共は“それ”――あるいは其処に重なる霧栄青年からやってきているようで、こうしている間にも彼の袖口から新たに何匹か卓上に転がり落ちていた。
「――――――」
 “それ”が再び何か云う。供物をせがんでいるらしい。
 ……状況を整理しなければ。幻覚を見、妄想に苛まれているという認識を一旦捨てて。
 目の前に居るのが所謂神と呼ばれるモノであるならば――此処が神のおわします異界であるならば。此岸の常識を求めるのはまず無意味、自分の寿命を縮めるだけである。
 其処に敷かれた理に則り、礼を尽くして神の許しを得る。それが異界に迷い込んだ際の作法だ。
 つい先程まで霧栄青年と穏やかに交渉していた私が何故神と対峙しているのか――何故供物を求められているのか、私は“それ”と何を契ってしまったのか。考えても答えの出ないことはさておき、今は神の機嫌を損ねないのが肝心だ。
 供物。
 なるほど、神頼みをするなら賽銭なり神酒なり玉串なりを奉納するのがセオリーである。価値あるもの、礼を尽くしたという証拠を差し出すことで、本来目通りの叶わぬ相手にお越し頂き、祈願の儀を調える。
 ──問題は何を差し出すかだ。荒ぶる神は往々にして人身人命を欲しがるもの。
「拝くん――」
 “それ”をどう呼ぶべきかわからず、霧栄青年であると仮定して問いかける。口を開いた途端、どろりとした水とともに無数の蟲が口内に入ってきた。
 この蟲が体内に入り込むとどうなるのだろう、と今考えるべきではない不安が思考を遮る。
「あなたの望む“供物”とは、どんなものですか?」
「――――」
 返ってきたのは意味の汲み取れぬ吐息と、顎ががちがちと開閉する音だけだった。リアクションが読めない。神――異界のモノと対話をしようというのは浅薄な発想だったか? 肌にまとわりつく湿気が自分の汗か蟲が出した粘液なのか判然としない。
「はっきりさせておきたいんです。この契約では、どの程度の重さの対価が妥当なのか。たとえばこの場で私の腕を一つ二つ切り落として差し出せば、それであなたは満足してくれるのか。それともそれ以上のものが必要なのか――」
 やはり返答はない。否定しない以上、私の話に一考の余地があると判断してくれたのだと前向きに仮定して、恐怖で動きの鈍い口をなんとか動かし続ける。
「――もちろん、最初にあなたに頼んで、契約を持ち出したのは“私”だ。相応の謝礼をする、とこの口で言ったのを忘れたわけじゃあない。決して、あなたを軽んじて対価を安く済ませようなんて腹積もりは毛頭ありません」
 考えろ。可能な限りの回転速度で脳を働かせる。今私が取るべき最善の選択を見つけなければ。
 神はなぜ供物を求める? 形而下の生命のように生存のための糧が必要なのか。ならば――一時的なものではない、継続的な行動が必要なはずだ。古今東西の伝承において、ヒトやムラに贄を求めて荒れ狂う異形は退治されるまでは一度限りでなく定期的に姿を表す。それは物質的な生物同様、“満たされた腹がまた空になるから”であろう。
 水底に漂い、“それ”に従い、今私に纏わりついている蟲の正体は何なのか。奴らは何故私に執拗に絡みつき、私の体内に入り込もうとしているのか。仮に彼らに命を捧げた場合、具体的にどういう状況になるのか。
 口の中に生臭い、生命の痕跡めいた腐敗した味の水が染み込んだ。白昼夢で私が浸ることの忌まわしき水が、“それ”の胎内で体液であることをその瞬間に理解した。
「……逆に言えば、対価が適正であれば何を願ってもいい、と解釈してもいいんですね?」
 私は手に纏わりついていた蟲を何匹か掴み、顔面を這っていた蟲共々無理矢理口に押し込んだ。口の中で無数の蟲がのたうち、胸を悪くする味の粘液と痛みで吐き気を催したが、どうにか無理矢理嚥下を試みる。
 ごくん、と自分の喉から響く音が、いやに耳障りに響いた。
「――――」
 “それ”ががちがちと顎門を開閉していた。えづき、息を荒げている私を興味深げに見つめているようだった。
「…………私が欲しいのは、“時間”だ」
 口内にいた蟲をすっかり呑み込んだのを確認してから、私は再び口を開いた。
「命乞いをしたいわけではなく、少しだけ猶予が欲しい。生憎ながら、今すぐに死ぬには未練がいくつかありまして。あなたにはもう少しだけ待ってほしい――そしてできるなら、その未練の解消に手を貸してほしいんです」
 腹の中で蟲が蠢いているのを感じる。気色悪さ、気味の悪さを堪え、笑顔を浮かべた。体裁を取り繕うのが得意なのが数少ない取り柄である。
「こんなことを言われたところで信用していただけないのはわかっています。だから――これを抵当にしてほしい。あなたの眷属をこの胎の中で“喰わせる”ことで」
 この場にうようよとひしめいている蟲達は、大学時代に線虫を研究していた知人が持っていた模型や標本によく似ていた。すなわち、他の動物の胎内に巣食う寄生蟲の類だ。
 彼らを“喰わせる”なら、“屍肉”よりも“生き餌”のほうが都合が良いに違いない。
「もし、これでも足りないというなら――」
 私は再度蟲を捕まえ、また口の中に詰め込もうとした。が、その手を“それ”に掴まれる――私は驚いて顔を上げた。
「――――――」
 “それ”は顎を大きく開き、喉を鳴らすような音を立てていた。
 ああ――笑っている。
 赫色の瞳が、私をじっと見つめている。
「あ…………」
 私は思わずその瞳に見入り、全ての動きを止めた。すると“それ”は私の顔に手を伸ばし――ぽかんと開いていた口に手を、指を、捩じ込んでくる。
「ぅぐっ――」
「――――――」
 “それ”が何か言っていたが、たとえ人語であろうと聞き取る余裕はなかった。喉の奥、咽頭かさらにその先にまで指――節くれ立った肢が入り、それを伝って喉を押しつぶさんばかりの量の蟲が、絶え間なく入ってくる。
 何匹もの、何匹もの、蟲が蟲が蟲が。
「ぅうううううッ……!」
 反射的に身をよじらせたが、既に“それ”によって胸倉を掴まれて逃れることができなかった。文字通り息つく暇もなく蟲を飲まされ続け、呼吸がままならない。喉の中で蟲が踊り気道を塞ぐ。咳き込むことすらできない。
「ぅ、ぇッ――」
 何秒、何分ほどそれが続いたのか。止まった呼吸は脳の血流を巻き添えにし、意識が遠のく。暗くなる視界の中、煌々と光る二つの赫色が目に焼き付いた。
「――――――」
 ああ、嗤っている。
 なるほど、神に取引を持ち掛けるとはこういうことなのか。

 

「……兄口さん?」
 困惑した顔の霧栄青年に声を掛けられ、私は白昼夢から醒めた。
「あ……ああ、すみません。ちょっとぼうっとしちゃいました」
 まさか「君が化物になる幻覚を見た」とは言えず、もごもごと平謝りする。目の前の青年は見紛うことなく人間である。
 目の前の人間が定期的に幻覚を視てしまう精神異常者だと知れば、どれだけ寛容な人間でも関わり合いになろうとは思うまい。
「睡眠不足なんですかねえ、昼間でもすぐ眠くなっちゃって」
「そう……?」
 苦しい言い訳に訝しげな顔をしていたが、幸いそれ以上の追及はなかった。ふと見れば霧栄青年が食べていた山のごときパンケーキはすっかり姿を消している。果たして私はどのくらいの間幻覚に溺れていたのだろうか。
「ええと、それでどこまで話してたんでしたっけ?」
「芯張村のことを色々話すってことでいいんだよね。すぐには思い出せそうにないから、ノートに書いてみるよ」
 バッドトリップをしていた最中の私はどうにか話を纏めることができたようで、こうして霧栄青年からの了承・言質を得られた。
「ある程度書けたら、また会ってノートを渡すよ。……ていうかまだ連絡先交換してないじゃん。お兄さん、ディスコードとかラインとかやってる?」
「ディス……ラ……あ、ああ、SNSアプリですよね。もちろんもちろん」
 どうにも覚束ぬスマホ操作でなんとか件のアプリを呼び出して、フレンド登録をする。普通に電話番号を交換するだけでいいと思うのは時代遅れの発想だろうか。
「よし、じゃあぼく、これから用事あるから」
 スマートフォンを仕舞うと、霧栄青年は性急に立ち上がった。
「自分の分は払っておくから、お兄さんはゆっくり飲んでてね」
「ありがとうございます。……そんなに急いで、どこに?」
 慌ただしく歩いて行こうとする霧栄青年に訊ねると、「次の動画の打ち合わせ!」と答えが返ってきた。
「案件が入ったってマネージャーさんが言ってたから、急がないと!」
「あ、案件」
 YouTuberとはそんな芸能人まがいに多忙なのだろうか。驚いているうちに、霧栄青年は会計を済ませてカフェを出て行ってしまった。
「……やれやれ」
 ともかく、一段落したことに安堵して私は飲みかけのコーヒーに口をつけた。温くなったブラックは苦行の味である。
「――う」
 気もそぞろに飲んでいたせいか、コーヒーが気管に入ってむせてしまった。堪えようと思ったが収まらず、しばらくげほげほと咳き込み続けた。
「げほっ、げほっ! げぇ……」
 咳をし続けるうちに、喉につかえていたものがずるりと落ちてきた。唾液とコーヒーと共に、口を抑えていた掌の上に転がり出る。
「……ああ――」
 見れば、そこには見覚えのある黒い条虫がもぞもぞととぐろを巻いていた。

6/30 兄口誘太郎​

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