「………………」
史料コーナーは、最早常人では呼吸もできないほど強く濃い瘴気が立ち込めていた。
俺自身、気を抜くと気を失ってしまいそうになった。師匠からもらった数珠を握り、吐き気を堪えながら先へ進む。
思えば、わかりきったことだった。
どれだけ濃度が薄くても、“良くないモノ”は心身に害があるからこそ“良くない”のだ。それを、そばにいて平気どころか、触れたり話しかけたりなどありえない。
手慣れすぎている。手なずけているかのように。
そして、“澱み”の中心がここにあるということは。
「来た」
やはり、彼はそこにいた。
「……なんで、そんなところにいるんだ?」
間抜けな質問だったが、問わずにはいられなかった。
「そこは危険だ。早く離れたほうがいい」
「危険、じゃないよ」
彼は瞳の色を昏くして言った。
「人間よりは、優しいよ。みんな」
「………………」
そんな言葉を言う彼は、いったい人間から何をされたというのだろう。
「きみが、瘴気をここに集めていたんだな?」
澱みはさながら彼を何かから守るように、彼を中心に渦巻いている。澱みの発生源は図書館ではなく、彼自身だったのだ。
……いや、本当は最初から気づいていた。
気づいていないふりを、していたかったのだ。
――きみみたいな子、会うのは初めてだ。
――きみのこと、もっと知りたいな。
そんなことを言ってもらえたのは、初めてだったから。
彼が悪いやつかもしれないなんて、考えたくなかった。
「なんでそんなことを……」
「僕は、何もしてない」
彼は淡々と言う。
「“みんな”が寂しいって、言うから。いっしょにいてあげただけ」
みんな、とは――彼の周りに集まる瘴気のことか。彼には、“あれ”が意思のあるようなモノに感じられているのか?
「もうやめろ。それは有害なモノなんだ」
自分でも気づかぬうちに語気が強くなっていた。彼がびくりと肩を震わせる。
「きみにとっては良くても、他の人には耐えられないんだ。このまま瘴気を集め続けていたら、いずれたくさんの人間が苦しむことになる」
「……なんで、そんな」
薄々感じていた。彼にとって他の人間は、取るに足らない存在なのだろうと。
それでも――
「きみは、変だ」
彼が絞り出すように言う。
「なんで、あんな奴らの味方をするんだ。きみは、違うじゃないか。なのに、なんで、僕じゃなくて、」
「違う!」
咄嗟に彼の言葉を遮った。彼にそれ以上のことを言わせてはいけない気がした。
「そうじゃない、きみも同じだ! 僕はきみのことも助けたいんだ!」
彼はきっと、出口も見えないような暗闇の中にずっと放り出されていて。何もわからないまま、暗闇だけを目に映していて。
放っておけるわけがなかった。手を伸ばして、連れ出してやりたかったのだ。
「………………」
けれど、彼は。
あの時みたいに目を限界まで見開いて。だけどそこに光はなく、昏々と闇だけが映っていて。
俺はそこで、確実に何かをしくじってしまったと悟ったのだった。
「そう、なんだ」
声が震えている。
「きみにとって、僕は、かわいそうなんだ」
「……だって、きみは……」
「きみも、あいつらと、同じこと言うんだ」
瘴気が暴風のようにこちらに向かってきた。
「うっ――」
高濃度の瘴気を浴び、一瞬視界が暗転する。尻もちをつき、目を白黒させていると、目の前に彼の顔があった。
彼の右目――黒く染まっていた眼球がぎょろりと回転し、こちらを見た。
縦に切り裂かれたような瞳孔のあるそれは、蛇の瞳によく似ていた。
「ぼくは、」
彼の瞳に睨まれると同時に、体に妙な痺れが走った。まるで太い縄でぐるぐると縛られているかのように圧迫され、骨が軋む。
「違う、のに。あいつらと、いっしょじゃないのに。なのに、同じにしろって、違うのはおかしいからって。誰も、僕の話を聞かない。誰も、僕の視えるものが、わからない」
「やめろっ……」
邪視か――あるいは金縛り系の呪詛か。数珠を握って意識を保つ。
呪いによる痛みより、彼が何を言いたいのかわからないのがつらかった。
「かわいそうじゃ、ないのに。最初から、違うのに。あいつらと同じにしようとして、同じになれないから、かわいそうって言うんだ、きみも」
「違う……そうじゃないんだ……!」
彼は何かを履き違えていて、でもそれは彼を取り巻く環境がそう思い込ませてしまったのだろう。今からでも正さなければ、それこそ彼は本当に。
霊気を発して瘴気と呪詛を弾く。万全ではないが動けるようになった。俺は彼に手を伸ばす。
「きみは……僕たちは、それでも、」
「きみだって」
きみだって、僕と同じ怪物じゃないか。
頭が真っ白になった。
何を言われたのか理解する前に、体が動いていた。
俺の手は彼の顔に触れていた――彼の頬を手の甲で思い切り弾いていた。彼の頬は赤く染まり、痛みに目をつぶっていた。
本当に、取り返しのつかないことをしてしまった。
「………………」
彼は何も言わず、よろよろと後ろに後ずさった。同時に瘴気も呪詛も消える。
「あ……」
どうしよう。
何か、言わなければ。
感じる焦りとは裏腹に、口内はからからに乾いて言葉を紡がせない。
そんなつもりじゃ、なかったのに。
「……お、おい」
「もう、いい」
最初に会ったときのように、彼はぼそぼそと呟いた。
「嫌いだ、きみなんか。もう、顔も見たくない」
「ま、待て……!」
「さよなら」
止める暇もなく、一瞬だった。
彼の体は瘴気に包まれ、そのまま呑み込まれるようにしてその姿を消した。
瘴気がすっかり晴れるころには、彼の姿はどこにもなかった。
「………………」
そしてその日以降、彼がこの図書館に現れることはなかった。
本来の目的であった“澱み”の解消は果たした。
彼が図書館に来なくなったことで瘴気が不自然なほどに図書館に集まることもなくなり、最低でも半年程度は放置しても問題はないだろう。
しかし。それでも。
「兄さん、終わりました。“みてぐら”を設置しましたから、これで数年は澱みは発生しないでしょう」
「わらわの編んだ特製の幣帛じゃからのう! 有象無象の瘴気などものともせんわ!」
「ああ、ありがとう」
あれから随分経ち、師匠の仕事を引き継ぎ各地の浄化をするようになった。
例の町もその中に含まれており、今はこうして反魂くんとオサキちゃんを連れて行脚をしている。
「というか、何もない町じゃのう。こんな町放っておいてもよかろう? どうせろくな信仰も持たぬ下民の……あいたっ」
「……言い過ぎです、オサキちゃん」
「だってつまらぬ町ではないか! 家と家と家しかないぞ!?」
「それが住宅街というものです」
オサキちゃんの傍若無人な発言を反魂くんがたしなめるのはいつものことだ。とはいえ、子供たちにとっては確かに面白くない町なのは確かだろう。
でも。
「何もないけど、思い出があるんだ。この町には」
「思い出?」
「昔の知り合いと、な」
この町に来るたび、彼とのことを思い出す。
あのとき――他の誰を差し置いても、ちゃんと彼の味方になれていたら。
もしかしたら、何かを変えられていたのかもしれない。