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 昔、ある地に行海と呼ばれる僧侶が居た。
 元は名のある商家に生まれ、跡取りと目され周囲からの覚えもめでたい青年だったが、大地震によって家が潰れ、一夜にして家族も商いも失ってしまった。身を寄せていた寺の僧に世の無常を説かれ、勧められるがまま仏門に入ったのだった。
 凄惨な経験が後を引き、滅多に笑わず物静かになってしまったが、真面目さは変わることがなく、入山した寺でも一目を置かれた。厳しい修行に苦もなく身を投じ、助けを求める檀家や物乞いに惜しみなく寝食を分け与え、いつしか彼は誰もが認める高僧となっていた。
 しかし――彼の内心は常に空虚であった。
 家族を失い、自分ひとりだけ生き残ったことで心にぽっかりと開いた穴は、どれだけの年月を経てもけして埋まることはなかった。いくら徳を積み、修行をし、悟りに至らんとしても――周囲が彼をどれほど称えたところで、彼は依然として空虚であった。
 やがて年老いた彼は、生き入定――今で言う“即身仏”になることを決意した。
 生きながらにして土中や箱の中に入り、断食をし続け、最終的にミイラのような姿で亡くなる――否、それは死んでいるわけではなく、生きながらにして仏になったものとして祀り立てるのが即身仏である。彼の属する宗派においてはある種究極の修行であった。
 何をしても晴れることのない霧に包まれた彼の心は、最早自ら仏になる道しか残っていなかった。
 無論厳しく残酷な修行であるため、反対の声も幾ばくかあったが、その頃には彼はすっかり寺の重鎮であったので、誰も彼を止めることはできなかった。彼は自ら山中に穴を掘り、その中で入定を図った。
 穴ぐらの中、ひとり断食と瞑想に励む彼に訪れたのは、しかし悟入ではなく更なる惑いであった。
 死にたくない。
 日に日に痩せ衰え、死に向かう己の身体を見、彼はそんなことを思ってしまった。地震から逃げ惑い、食うや食わずでからくも生き延びた若き日のことをまざまざと思い出してしまった。
 何が入定だ。何が生き仏だ。こんなもの、ただの無駄死にではないか――。
 発狂した彼は穴から抜け出し現世に戻ろうとした。しかし――そんな彼を弄ぶかのように、再び地震が起きた。山は大いに地崩れを起こし、彼の居た穴もすっかり埋もれてしまった。山の様相は一変し、彼の入定を手伝っていた者達ですら、彼の居場所がわからなくなってしまうほどだった。
 彼は即身仏として掘り起こされることもなく、土の中で朽ちた。

 

 彼が再び意識を得たのは約一世紀ほど経った頃だった。
 土中から程遠い、明るい白染めの部屋に彼は寝かされていた。見慣れない形の白衣を着た人間達に見下ろされ、「成功だ」などと彼らが口々に叫ぶのが聞こえる。
 訳がわからない。
 体は思うように動かず、鉛のように重く固まっている。
「収容の準備を! それから、野樒博士に“検体UD3189”が活性化したことを報告してくれ!」
 白衣の男の一人がそんなことを言っていた。
 検体UD3189。それが彼の新しい名前となった。
 彼を取り囲んでいた人間――“万世博物館”の研究員たちの断片的な会話を整理すると、彼は死より甦った屍であるらしい。
 かの西行法師の伝説がひとつ、反魂の術。死体の骨と砒素やいくつかの材料を用いて新たに人を造ったり、死者を蘇生させる秘術。御伽話に等しい荒唐無稽な伝説であるが、どうやら研究員たちは大真面目にそれを実行したようなのだ。
 入定にしくじり、誰にも見つからぬまま骨と化した彼の屍をたまさかに掘り出し、かの秘術によって甦らせたのだと。
 眩暈のするような話であった。しかし現に息絶えたはずの自分がここにいる――穴に籠った時より遥かに若く幼い、少年の姿になって。
 なんだ、これは。悪い夢でも見ているのか。はたまた悟りに至るどころか錯乱したまま、幻覚に溺れているのだろうか。
 彼の悪夢は一向に覚めることがなかった。
 目覚めて以降、研究員たちは次から次へと実験を彼に施した。
 ある時は体を切り開かれては臓腑を取り出され、またある時は負傷した人間や死体の前に連れて来られ。石ころを食物に変えろだの、猛り狂った獣を手懐けろだの。かつての修行時代すら凌ぐ責苦が彼を襲った。
 どうやら“検体UD3189”は、復活した聖者として迷える衆生を済度することを求められているらしいのだ。
 釈尊のそれが舎利と呼ばれ尊ばれているように、西方の預言者の骸を包んだ布が霊験あらたかな秘宝とされているように、聖者の屍ないしそれに関する物品は得てしてそれ自体が功徳を備えるものだ――と研究員のひとりが語った。
 生き入定した行者――この時代で云う即身仏もまた、生き仏として信仰されているように。
「お救いください、我々衆生を。貴僧が生前そう志されていたように」
 奇蹟を成せ。霊験を発揮せよ。そうして未だ救われぬ人類を救い導くのだ――研究員たちは悍ましい笑みを浮かべ、彼に求めた。
 生憎、期待に応えるほどの力を彼は持っていなかった。
 彼がいくら仏に祈り、経文を唱えど、それが生者に効力を与えることはなかったのだ。
 代わりに――成仏せずに漂う浮遊霊、地縛霊、あるいは彼と同じく生ける屍の類には覿面の作用があった。
 経を唱えるごとに周囲の“死者”を消滅させる彼に、研究員は落胆を隠さずにいたものの、しかし彼を解放することはなかった。
 実験対象。
 あるいは、研究材料。
 博物館にでも収蔵し、図録に記すための存在。
 ここでの彼は、“人間”という枠組みの外側に置かれたモノだった。
 これは仏罰であろうか、と何度も自問した。
 仏門に帰依し、僧として徳を積もうと励んできたが、その実、それらは胸の空虚を埋めるためにやってきたことだ。見せかけばかりの善行に、中身のない説法。仏の顔に泥を塗っているのも同然だ。仏道を軽んじてきた自分に、ついにやってきた因果応報なのか――と。
 次第にそんなことを考えるのも億劫なほど、彼は疲弊していった。
 死者に祈りを捧げ、それを記録され、体を切り開かれては中身を暴かれ、また新たな実験に駆り出され――それがひたすらに繰り返される日々。徹底して“モノ”として扱われ続け、彼の精神は磨耗していく一方だった。
 生者に引き摺り回され、亡者に縋りつかれ。
 ああ、それこそ見てくればかり立派で、中身は虚の仏像のようだ。
 人を助け、死者を救って――では、この私はいったい誰が佑けてくれるのか。
 感じた絶望すらも擦り切れていた、ある日のことだった。

「許さんぞ、万世博物館!」

 朗々と、天まで響くような声がどこからともなく聞こえた。
 直後、彼が閉じ込められた部屋の壁が爆砕した。驚く間もなく、その壁を破壊したであろう男がずかずかとこちらへ近づいてくる。
「君、大丈夫か⁉︎ くそっ、よくもこんな非道な真似を……!」
 まだ若い男だった。長い髪を括り、いかにも伊達男といった風体で、天を衝くほど背が高い。人間のはずだが、まるで神仏のように後光を放ち、眩しさに目が霞んだ。
「怪我はないか――」
 男がこちらの顔を覗き込む。
 青天の如き、澄んだ眸。
 ――ああ、彼こそが。
 彼は確信する。これこそが“仏性”たるものなのだと。
 世に釈尊の如き人物が誠にいるのなら、それはこの男なのだと直観した。
「……そうか」
 男は彼を見て切なげに目を細め、そしてひしと彼の体を抱きしめた。
「今までつらかったなあ。よく頑張ったなあ」
 男は彼のすべてを見透かし、それを慈しむかのように言った。
 胸の虚が、やっと満たされたと感じた。
 自分は、この男と出会うために今まで存在したのだと、彼は思った。

 

 


「名前をどうするかなあ」
 研究所から彼を連れ出した男――真賢木ミロクは、そのまま快く自分の家に彼を受け入れた。
「行海って戒名は、ちょっと物々しいし。かと言って、奴らがつけたコードネームもなあ」
 彼の伸び切った髪を短く切り揃えながら、真賢木は悩ましげに首を捻る。
「……反魂、で良いでしょう。どの道今の私は、屍ですから」
「身も蓋もなさすぎないか、それじゃ。……よし、できた」
 真賢木が彼に鏡を見せる。青白い顔に据わった目、亡者のような面持ちの少年の姿が映る。
「だいぶ短くしたけど、これで良かったか?」
「はい」
 いっそ生前と同じく剃髪にしようと思っていたのだが、それは真賢木に猛然と止められた。代わりに稚児のようなお河童頭にされたが、それも不思議と悪い気はしない。真賢木に整えられたのなら、歌舞伎役者の連獅子のような髪でも構わなかった。
「じゃあ、これからよろしくな、反魂くん」
「はい、兄さん」
 蘇ったこの身は、彼に捧げよう。それこそが自分の天命なのだ。
 真賢木はどうやら人の身にして複雑な因縁を背負い、誰に請われるわけでもなく衆生を救わんと奔走していた。
 あるいは、あの研究員達が求めていた聖者の再来のように。
(ならば――私が彼を支えなければ)
 孤独なまま聖者として求められる苦しみを理解しているのは今の自分以外にいないだろう。
 彼に出会うために生きて死に、また蘇ったのなら、そんな彼を護り、助けるのもまた自分の使命であろう。
 あの日、真賢木に手を差し伸べられた意味を、そう定義し――“反魂くん”は彼の弟子となった。
 

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