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「お待たせ。そろそろ本題に入ろっか」
 その後も霧栄青年は、脂がたっぷりと乗ったサーモン、ぷりぷりとした甘えび、出汁が香ばしい玉子、鮮やかな紅色のまぐろ、弾力のあるえんがわ──など次々寿司を食べ、テーブルに皿を置くスペースがなくなったあたりでようやく手を止めた。
 総額おいくらになるのだろう、この皿の数。
 他人事ながら、思わず寒気がする光景だった。
「とりあえず、思い出せたことから書いてみたんだ。よく思い出せなくて、大した量じゃないけど」
 と言いながら、霧栄青年は洒落た柄の信玄袋からA5サイズのノートを取り出した。受け取ってめくってみる。最初の数ページに日記のような文章が書き連ねられているが、残りは真っ新な状態のままだった。
「書いていただけただけでも充分ですよ。ご協力、本当にありがとうございます」
 村の祭事、村人の様子、彼自身の暮らし──どれも貴重な一次資料である。もちろん、古く曖昧な記憶ゆえ鵜呑みにしてはいけないが……ああ、この祭事、灯し参りというのか。とても気になる。芯張村独自の風習か? 帰って近隣の村の風習に似たものがないか照らし合わせたい。見たところ庚申講と関係がありそうだが……?
「……そんなに面白い、かな?」
「はっ!? あああ、すみません! 興味深くて、つい夢中で……!」
 軽く目を通すだけのはずが、気づけば時間を忘れてノートを凝視してしまっていた。気を惹かれるとすぐ没頭してしまう悪い癖が出た。
「本当にすみません。お忙しいのに……」
「今日はもうフリーだから時間は大丈夫だけど」
 霧栄青年は奇行を繰り返す私に不審げな眼差しを送りながら、少し困ったように続けた。
「そんなにしっかり読むんだったら、家に持って帰ったほうがいいよね? どうしよう、コピーとか取ってきてなかったし、そのノート、そのまま持って帰る?」
 言われて気がつく。確かに、資料にするなら書き写すなりコピーを取るなり、いつでも読み返して確認するための“現物”が必要なのだ、普通は。欲を言えばこのままノートをもらって帰りたいのは事実だったが、ほとんど新品同様のノートをもらってしまうのは流石に気が引ける。
 だが、私にはこういう時に役立つ裏技がある。
「大丈夫ですよ。ちゃんとよく読んで、全部覚えましたから」
「え?」
「ちょっと失礼」
 私はテーブルの上の皿を整理し、どうにか書き物が出来る程度のスペースを作った。ノートを霧栄青年に返し、バックパックから自分のノートと筆記用具を取り出す。
「ええと……『今日は兄口誘太郎という名前のお兄さんと会いました』と」
「え? えっ、嘘っ」
 そのまま先程読んだ文章を記憶通りに書き上げる。あまり多い文量ではないので、そこまで時間はかからない。私は書き上げたものを霧栄青年に見せた。
「はい、これで“コピー”が取れました」
「……うわ、本当に全文おんなじだ。どうやったの? 読んだだけで全部覚えちゃったの?」
 霧栄青年は目を丸くしながら自分のノートと私のそれとを見比べている。滅多に他人には見せない特技なので、少し面映ゆくなった。
「あっ、わかった! 『瞬間記憶能力』ってやつでしょ! 漫画で見たことある!」
「そこまで精度の高いものじゃないですけどね。一日もしたら忘れちゃいますし……」
 本来の瞬間記憶能力――いわゆるカメラアイとは実際まったく異なる、単なる大道芸程度のものだ。大学時代はレポートやノートの写しをやるバイトで多少役立ったが。
「では、こちらはいただいていきますので。引き続き、何か思い出したらまた教えてください」
「うん……」
 自分のノートをバックパックに仕舞い、帰り支度をしていると、霧栄青年が何やら言いたげにこちらを見ていることに気がついた。
「何か?」
「いや……不思議だなと思って」
 霧栄青年はまたいつの間にかレーンから皿を取り、脂がたっぷりと乗っていそうな中とろを食べながら眉をひそめて言う。
「兄さん、どうして芯張村なんか調べてるのかなって」
「あれ、前回言いませんでしたっけ?」
「みんぞく学がどうとかは聞いたけど」
 民俗学の発音がどうにも覚束ないのはさておき。
「研究のために、いろんな地域に行って人の話を聞いたりするんだよね。でも、その芯張村ってほら、今はないじゃん。村人もぼくしか残ってないし……研究の題材にするにはあんまり向いてないんじゃないかなって」
「…………」
 当然の指摘である。
 たったひとりからの証言と、廃屋に散乱するかつての住民達の残した文書から組み立てた推論など、“研究”と呼ぶにもおこがましい。ある程度形になったところで、それを発表できる場もないだろう。
 まあ、個人的な趣味と興味というだけの話なのだけれど。
「……実は、どちらかというと僕個人の興味で調べてまして」
 考えた末、“ある程度”正直に話すことにした。
「興味?」
「はい。芯張村にはいわゆる“現人神”――神として信仰される生きた人間がいたんでしょう。その名前は燈籠様――」
 そろそろ冷めてきた白湯を口にする。湯呑みの中にはいつもの通りどこからともなく湧いてくるあの黒い蟲が浮かんでいたが、気にせずに飲む。口の中で蟲が蠢めく感触にも慣れてきた。
「――拝くんが昔そう呼ばれていたんですよね?」
「? うん」
 揺さぶりのつもりで口にしたが、彼は特に何も感じなかったようできょとんとしていた。
 かって現人神として扱われていたことを隠しもしなければ、やましさを感じさえしていないのだろう。
 それが奇異な風習であることも、もしかしたら知らないのかもしれない。
 人は自分の中の常識や偏見には疎いものだ。
「確かに、生きた人を“神さま”にするのは他の地域ではあんまりないってのは知ってるよ。でも、それだけ?」
「『神が生きている』のはとても重要ですよ」
 さて、彼はニーチェを知っているだろうか。
「神とは信仰です。信仰とは価値観で、その世界を動かす理――ルールでもある。『一柱の神が今なお信じられている』これはつまり、その地域では"外界”とは違う理が敷かれ、有効に作用しているということだ。例えば仏教が信じられている国と、キリスト教圏の国では様々な教養や作法が異なっているように。神の居る国と居ない国は、異界と云ったほうが良い。
「私――僕は異界に行ってみたいんです。生きた神のおわす、別世界に。そのための研究を、しているんです」
 嘘ではない。
 紛れもない本音だ、少なくとも半分以上は。
「……荒唐無稽な話でしょう。神なんて現代においてはもう夢物語でしかありません。研究者仲間にも一蹴されますし、もちろんまともに研究なんてできたもんじゃない。だから、燈籠様のことを知って、藁にもすがる思いで調べ始めた──そういう経緯なんです」
 我ながら与太話としか思えない内容である。元より、信じてもらおうとは思っていないが。
 こちらの気がとうに触れていることを早いうちに知られていたほうが後々のためだ。
「変ですよね。こんな話、聞かされたほうが困るのはわかってます。これを信じて協力しろだなんて、むしが良いですけど……」
「ううん、そんなことないよっ!」
「え」
「そうだったんだ……そうだったんだねっ!」
 どういうわけかひどく感極まった様子の霧栄青年が私の手をがっちりつかんでいる。え? どうなってるのこれ。予想外の展開に唖然としてしまう。
 まさか、今の話をすべて大真面目に聞いて、丸きり信じてしまったと?
「兄さんの話、難しくて半分もわかんなかったけど……でも、兄口さんの気持ち、よくわかったよ!」
「え、は、はあ」
 わかっているのかいないのか。それは『早合点』というものでは?
「兄さん、そんなに“神さま”に会いたかったんだね! そういうことなら、ぼくも全力で助けるよ!」
 そんなことは一言も言っていないし、なんだか大いに行き違いが発生している気がする……だが今ここでその誤解を解かないほうが話がスムーズに進みそうだった。
「え、ええ……まあ、じゃあ……よろしくお願いします」
「うんっ! 任せて! “神さま”として、精一杯頑張るから!」
 騙しているわけではないが、少し良心が痛んできた。こんなに純粋で善良な若者を巻き込でしまっていいのか。……巻き込むも何も、彼こそ当事者そのものなのだけれど。
 芯張村における殺人事件の、重要参考人だ。
 ともあれ、改めて彼から協力の意思を得られたのは前進と言っていいだろう。私は一息つき、再び湯呑みに口をつけた。口の中で暴れる蟲を、奥歯で軽く噛んで黙らせる。
「どうか、本当によろしくお願いします」
 ところで、私は神や仏といった類の存在を一切信じていない。

7/2 兄口誘太郎

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