京都は祇園祭における“お稚児さん”を初めとして、幼い子供を神使として祀り上げる風習は珍しいものではない。
古来、死という“異界”が神の国・常世と結びついていた頃。医学薬学が未成熟な時代において、幼児の落命は今とは比べ物にならないほど多かった。免疫や抵抗力が低く、運動能力も発達途上。自らの苦痛を周りに伝えるための言語能力も拙い五、六歳頃までは特にである。
それにより、この国においては子供のつつがなき成長を祝う七五三という風習があり、それよりも早く亡くなった子供は“神の国”に戻されたと解釈する『七つ前は神の内』という言い回しが存在する。
死にやすいという特性、そして大人達とは言葉を交わせず、しばしば理解不能な言動をする子供達に神秘性を見出し、“神懸り”として異界のモノからのメッセージや贈り物を託されていると解釈するのは、当時として自然なことだったのだろう。
芯張村における“燈籠様”として、当時十一歳──襲名当時は八歳だったらしい──の拝霧栄少年が選ばれたのも、だからそこまで違和感を覚えてはいなかった。
もちろん祭祀の時のみその役割を演じるお稚児さんや神使と、実際に生き神・現人神として信仰されていた燈籠様とは単純には比較できない。霧栄青年によると、燈籠様に任命された者は後継者を指名するまでほぼ一生神として務め続けるそうだ。事実、先代の燈籠様──拝兼彦氏は代替わり時相当な高齢だったらしい。
一時のお祭りの時だけならまだしも、四六時中神として扱われるのは子供の教育上どうなのか、と思わなくもない。彼の保護者──両親あるいは後見人による心理・情緒的なフォローが行われていたのだろうか。
今現在も霧栄青年が“神”と名乗っている以上、どうしても懸念してしまう。
その立場が有効である芯張村内だけで完結するならまだしも──今は状況が違う。村が消滅し、霧栄青年も法令上成人である。現代日本において、彼をその主張通り“神”として扱ってくれる人間は、おそらくいない。
生き神であった彼は、はたして此岸たるこの国で“人間”として生きられるのだろうか。
……これ以上彼の事情について踏み込むのはよくない。無用な詮索、要らぬお節介は避けなければ。
そういえば、一つ気になっていたことを思い出した。
芯張村において彼は“神の依代”として扱われていたと記憶している。神そのものではなく、その心身に神を宿しているか、あるいは神の代理人のような認識だった。
“依代”とは神の憑依先、寄り付く対象を意味する言葉だが、基本的には御神木や岩、神事に使う祭具など“モノ”に使われる語だ。人間の場合は憑座(よりまし)、当時の霧栄少年のような子供なら尸童(よりわら)と呼ばれるのが一般的である。
ただの方言、言葉の綾であれば良いのだが。
5/4 兄口誘太郎